ニューヨークを拠点に活動するアーティスト、落合多武の展覧会「輝板膜タペータム」が銀座メゾンエルメス フォーラムで開催中だ。このタイトルは、夜行性動物の眼球が持つ、暗闇の中でわずかな光を捉え反射する機能の「輝板(タペタム)」に由来する。暗闇で光る猫の目のように小さな光を反射しながら、見る者に自由な想像を与えてくれる、そんな作品を制作する落合に話を聞いた。
自然な状態で、そこにある
落合多武の作品は、ペインティング、立体、写真など、さまざまな表現形態を持つ。今回の展示は、これまで四半世紀にわたり発表されてきた『M.O』、『誰もが二つの場所を持つ』、『灰皿彫刻』、『旅行程、ノン?』、『ショパン、97分』などのシリーズと新作『オセロ』から成り、レトロスペクティブ的な側面もあるが、それらが組み合わさった1つの壮大なインスタレーションのようでもあり、その多様な表現の間をさまような体験ができる。
『猫彫刻』は、過去の同名タイトルの作品と対をなす作品。猫の彫刻がキーボードの上に置かれ、キーボードから延びたコードは展示空間に有機的な線を描いているようにも見える。今回の展示の全容は「将棋の手」のように決まっていったという。
「人工であるけど自然状態(例えば地名)になるように配置したかった。あのコードも、ドローイングのようでもあるし、実際に音を出すために使われているコードでもある。でも、それを超えて自然な状態にあるんです」。
そもそもそこにあるのが自然な状態。他の作品も、何気ない一瞬を捉えたように見える写真や、綿密な計算により描かれたように見えるペインティングも、説明はつかないけれど、自然に行き着いた姿なのだ。
「絵は誰が描いても、どこかでやめて完成させますよね。それがそのアーティストにとっての“自然”ということだと思います」。
構造、そしてアイデアとしてのドローイング
ショパンは自分の死後に心臓をパリから故郷のワルシャワに運んでほしいという遺言を残し、そのとおりに彼の心臓は運ばれたという。『ショパン、97分』という一連の写真シリーズは、その行程を憧憬し、落合がパリからワルシャワまで旅して生まれた作品だ。
「パリからワルシャワまで旅するという構造だけ決めて、その間に起こることは偶然だったり予想外のこと。構造映画と呼ばれるジャンルがありますが、僕の中ではそれに近いものです」。
そんなふうに、落合の作品は、作品を決定づける構造のアイデアがユニークなのだ。例えば『誰もが二つの場所を持つ』は、すべての人間は2つの場所、すなわち生まれた場所と死ぬ場所を持っており、その2つの地名が描かれる。『旅行程、ノン?』は、12ヵ月それぞれの月の各国の祝日が、都市名とともに書かれており、不可能な旅の行程を表している。
「2008年に『note on drawing』という本を書いたのですが、その時、自分の作品はアイデアとしてのドローイングであるという仮説を立てました。いろいろな種類の時間を見えるようにする。例えば『誰もが二つの場所を持つ』はある人の人生の最初から最後までを見せるものだし、『ショパン、97分』もそう。ある意味、『猫彫刻』のコードもアイデアのドローイングだと思います」。
『note on drawing』は詩のようなものだったという。今回、展示室の一角で、英語とフランス語と日本語による、テキストの朗読が流れている。言葉の意味というより音の響きが降ってくるような作品だ。
「今回は詩とは少し違うのですが、以前、詩を書いたら、詩人の方になんでアーティストが詩を書くのかと言われて困りました。でもアーティストはものを書いている人が多い。でも、もしかしたら僕のテキストはそういうものではなくて、作品とほぼ同じものかもしれない」。
どこにいても、その場所に影響される
落合の独特の感性や創造性は、1990年に渡米して以来、ニューヨークのアートシーンに触れて培われてきたところが大きい。90年代初頭、落合が大学院の学生だった時に、フェリックス・ゴンザレス=トレスが教員にいたが、結局彼の授業はとらなかったことに触れ、「彼が一番いい先生だったのでは」という。トレスはやる気がなく、お金のためだけに教えていると言っていたそうだ。「変なところでしたけど、どこがいいとか悪いではなく、どこにいてもその場所に影響されますよね」。
これまで「移動」が作品の要素になることも多かったが、新作の『オセロ』はコロナ禍の夏、ニューメキシコで1ヵ月の隔離生活が続いていた時に生まれた作品。これから世界は変わるのだろうか? それによって作品に影響もあるのだろうか。
「世界は変わってきているかもしれないけれど、大きく見ればそんなに変わらないかもしれない。いつでも戦争はあるし、これまでもパンデミックはあったし、地震もある。作品はわかりやすくは変わらないでしょう。9.11のときもニューヨークにいましたが、わかりやすく変わるということはなかった。でもすべて見るものに影響はされると思います」。
落合の作品は、言葉にしようとするとこぼれ落ちてしまうものがたくさんあるような気がするが、作家は質問に1つひとつ、考えながら丁寧に言葉を紡いでくれた。その中で「マジックナンバー」について教えてくれた。
142857に2をかけると285714、3をかけると428571……と数列が少しずつずれていく。が、7をかけると999999になるという、不思議な数字だ。なぜそうなるのかは説明がつかないけれど、自然にそうなっている。彼の作品はそんな風に、自然でありながら、新鮮な驚きを与えてくれるマジックナンバーのようなものかもしれない。