「アニメージュとジブリ展」の監修・高橋望が語る「鈴木敏夫の編集者としてのすごさ」と「高畑勲と宮崎駿の絆」

東京・松屋銀座で開催されていた展覧会『「アニメージュとジブリ展」一冊の雑誌からジブリは始まった』。新型コロナウイルス拡散防止のため、会期は当初の予定より短縮して終了となってしまったが、今後宮城県石巻での展覧会をはじめ、全国で巡回展を予定している。

本展覧会は鈴木敏夫が編集者として活躍していた時期(1970年代末から1980年代)に焦点を当て、1979年に登場した『機動戦士ガンダム』の大ヒットにより質的にも量的にもアニメが大きく飛躍するブーム期、そして鈴木が後のジブリにつながる高畑勲・宮崎駿、両監督を発見し、彼らとの映画製作に傾斜していくまでの道のりを紹介。鈴木のプロデュース術や、仕事術の他、初公開となる『風の谷のナウシカ』のセル画や押井守監督作品『天使のたまご』の貴重な資料なども展示されていた。

今回、展覧会の監修を行った『アニメージュ』時代の後輩であり、現在は三鷹の森ジブリ美術館のシニアアドバイザーを務める高橋望に、編者者としての鈴木敏夫の魅力から、高畑勲、宮崎駿、そして近年はプロデュースを担当している細田守について聞いた。東京会場の展示風景とともに紹介する。

——まず、今回の展覧会の開催のきっかけから教えてください?

高橋望(以下、高橋):もともとは昨年開催する予定だった「鈴木敏夫とジブリ展」が始まりでした。昨年12月に鈴木さんが出版した『ALL ABOUT TOSHIO SUZUKI』は当初は、その展示の図録として進められていたもので、展示がコロナの影響で中止になってしまい、単独の出版物として発売されました。『ALL ABOUT TOSHIO SUZUKI』に僕も寄稿していたので、大規模展は中止になったけど、ポイントを絞った展覧会ができないかという話になって。それだったら、あまり語られていなかった『アニメージュ』時代の鈴木敏夫に絞ったほうがいいのではということで、今回の展示に至ったというのが、なんとなくの流れです。­­

——高橋さんが『アニメージュ』編集部に入ったのはいつ頃ですか?

高橋:僕は1983年に『アニメージュ』の編集部に加わったのですが、当時は鈴木さんが副編集長でした。『風の谷のナウシカ』の連載が始まって1年くらいで、ちょうど映画化の話が始まったくらいの頃でした。

徳間書店に入社して最初は『テレビランド』編集部にいたんですが、当時『アニメージュ』の編集長だった尾形(英夫)さんなのか、鈴木さんなのか、わからないんですが、一応、請われて『アニメージュ』編集部に異動になりました。当時は、『アニメージュ』編集部にそこまでアニメに詳しい人はいなくて、僕がアニメに詳しかったのと、ちょっと生意気なところがあったから使ってみようと思ったのかもしれないですね(笑)。

——『アニメージュ』編集部にアニメに詳しい人がいないのは意外ですね。

高橋:僕よりあとは増えていきましたが、当時は他の部署からきた人だったりしましたから。でも、フリーと呼ばれる学生アルバイトの方がたくさんいて、そういった人達はめちゃくちゃアニメに詳しくて。尾形さんや鈴木さんの方針がそういった外部の人達を積極的に使っていこうという感じだったので、どんどん記事も書かせていました。そうしたファンの視点をうまく編集部員がプロとして編集していく。僕はちょうどファンと編集の中間的な立ち位置だったので、よかったのかもしれないです。

——当時の編集部の熱量は今回の展示からも感じられます。

高橋:尾形さんの方針もあったと思いますが、やはり鈴木さんの力が大きかったのかな。編集部には大げさではなく、60人くらいいてお祭りのような状態で作っていました。

——今回の展覧会の核ともなっている『ナウシカ』は、昨年、リバイバル上映されて、再び話題となりましたが、『ナウシカ』が時代を超えて愛される理由はなんだと思いますか?

高橋:これは私見になってしまいますが、1つはSFだからっていうのはあると思います。だからテーマとしていつ観ても新鮮に観られる。もう1つは、ナウシカというヒロインの圧倒的魅力。宮崎さんの作品の中でも、ナウシカは人類の運命を1人で背負うスーパーヒロインとして唯一の存在ですよね。当時の『アニメージュ』に、「今月のベスト10キャラ」っていう企画があって、これは「好きなキャラを読者に投票してもらって毎月ベスト10を決める」という恐ろしくシンプルな企画。『ナウシカ』の映画公開から2年以上もたった1986年に始まった企画にも関わらず、スタートからナウシカがダントツの1位で、1991年に『ふしぎの海のナディア』のナディアが首位になるまで約5年間連続首位でした。それくらい愛されるキャラではあると思います。

——『ナウシカ』の映画ができた時はヒットするなっていう感触はあったんですか?

高橋:あんまりヒットするのか、とかそういうことは考えなかったですね。そもそも、当時は映画の興行の仕組みとか、どれだけ売り上げがいけばヒットなのかとかよくわかっていなかったし。ただ、『ナウシカ』も『ラピュタ』も本当の価値がわかったのはあとになってから。映画の『ナウシカ』って原作よりもかなりシンプルになっていたので、僕自身も当時は「これで終わるの」みたいな、何かもの足りないなって感じていました。ここ20年くらいで客観的に見て、そのすごさがわかるようにはなりました。

「鈴木さんは常識にとらわれず、やるべきことを進めていく人」

——高橋さんから見て、鈴木さんの編集者としてのすごさはどういったところでしたか?

高橋:すごさとは少し違いますが、型破りなところはあって、いわゆる編集者のイメージとは全く違う人でした。雑誌の編集者でありながら、映画を作るなんて当時は考えられなかったですからね。自分が与えられている枠組みをはなから無視していましたね。だって普通だったら、「映画を作る」ってなったら、映画会社に依頼すると思うんですが、鈴木さんは雑誌を作りながら、その延長で映画を作るんですからね。

ただし、『ナウシカ』(1984年公開)の時はそれでよかったんですけと、その後、『ラピュタ』(1986年公開)の制作にあたっては、既存のスタジオに頼むのではなく、徳間書店を中心として、そのための新スタジオを設立することになったんです。それがスタジオジブリです。そのあたりから、「編集者」から映画プロデューサーのほうに軸足を移していったように思います。

——鈴木さんは最初から映画を作りたいっていう志向があったんですかね? 

高橋:うーん。どうだったかな。映画プロデューサーを志向しているとは最初は感じなかったですかね。映画っていうよりも、人だったのかな。高畑さん、宮崎さんの才能に惚れ込んでいたというか。それはすごく感じました。

映画以外にも『アニメージュ』の周辺には文庫や音楽レーベルもあったんですが、それも任せるんじゃなくて、コミットする。文庫編集部とかが別にあるのに、自分で作ったりして。普通、副編集長ならその雑誌を作ることに専念すると思うんですけど、常識にとらわれず既成の仕組みとか、役割を無視してやりたいこと、やるべきことを進めていく。そういう人でした。

——高畑さん、宮崎さんと鈴木さんの関係性は有名ですが、当時から鈴木さんは新しい才能を発掘しようという思いは強かったんですか?

高橋:才能を発掘するのも、アニメのクリエイターと雑誌の編集者と、2つありますが、両方とも熱心でした。若い人に仕事を与えて、うまく引き出していくのが極めて上手で。僕なんかは全くまねできないですが、任せる時は全部任せる。ページの担当者が「これやりたいです」って言って、よければどんどんやらせる。雑誌はこうあるべきとかを押し付けない。信頼して伸ばすのがうまかったですね。もちろん、怒ることもあるんですが、基本的には「人のいいところを伸ばす」タイプでした。

アニメ作家に関しては合う人、合わない人はいたと思います。『機動戦士ガンダム』の富野(由悠季)さん、大塚(康生)さん、高畑さん、宮崎さん、押井(守)さんとかは自分なりに波長が合うとか、才能を買っていましたね。雑誌の編集者としては、もっといろいろな人と円満にやった方がいいという意見もあるかもしれませんが、自分が入れ込んだ人ととことん付き合う。それが今につながっているんだと思います。

『おもひでぽろぽろ』で感じた高畑勲と宮崎駿の絆

——スタジオジブリができた時はどういった感じだったんですか?

高橋:スタジオジブリ設立には2段階あって、はじめは1985年、『ラピュタ』を制作した時。当時鈴木さんと同僚の亀山(修)さんが怪しい動きをしていて(笑)。その時は『ナウシカ』の次に、宮崎監督でもう1本作るっていう話になっていて、それで突然、「新しいアニメスタジオを作るんだ」って話をされて、それは衝撃でした。新しいスタジオってそんな簡単に作れるのって思いましたね。

それまでも、宮崎さんの作品を作ってきたアニメスタジオは何社かあったので、そこに頼むものと思っていたんですが、「今回から方針を変えて、新しくスタジオを作ることにしたんだ」って鈴木さんは言い出して。それで実際に吉祥寺にスタジオを作ったんです。ただ、当時はたくさん人を雇うという感じではなく、基本は作品を作り終わったらチームは解散するという感じでした。

その後、『おもひでぽろぽろ』(1991年公開)の時に本当の会社にするっていう感じになって。その時に僕もジブリに参加しました。この時から人を雇って、組織にして、それこそ社会保険にも入って、今のような会社の組織ができ始めました。1992年に小金井に宮崎さんが設計した自社ビルを作って。そこで、今につながるジブリがある程度完成しました。

——そこからジブリに入社して、直接仕事をすることになった宮崎さん、高畑さんの印象は?

高橋:僕が最初に関わったのが、『おもひでぽろぽろ』だったので、高畑さんのほうが印象は強いんですが、本当にすごい人だと思いました。知識も豊富で普通に話をしていても、得るものはたくさんあって、僕自身も得難い経験がたくさんできました。仕事以外の時は極めて理性的な人で素晴らしい人でした。

ただ、作品作りに関しては、めちゃくちゃでした(笑)。高畑さんはスケジュールを守るっていう考えがない人。これは僕も聞いた話なので、少し誇張されているかもしれませんが、テレビシリーズのアニメをやっている時に、「なんで週に1本放送する必要があるんだって怒りはじめた」なんてエピソードもあったりして。確かに言いそうな人ではありましたね。完全主義者で納得するものを作るっていう人でしたから。

——宮崎さんはどんな印象でしたか?

高橋:宮崎さんと一緒に仕事したのは、『紅の豚』(1992年公開)と『千と千尋の神隠し』(2001年公開)だったんですけど、僕はそれよりも『おもひでぽろぽろ』の時の宮崎さんの印象のほうが強いんです。実は『おもひでぽろぽろ』は、監督は高畑さんで、プロデューサーは宮崎さんでした。

その前に高畑さんが作ったのが『火垂るの墓』(1988年公開。『となりのトトロ』と同時上映)だったんですが、それが上映開始時に作品が完成していなくて、一部色が塗られていない状態で未完成のまま公開されたんです。こういうことがあると、次の企画ってなかなか決まりづらいんだと思います。

そういう中、僕が受けた印象としては、宮崎さんは高畑さんが『火垂るの墓』で終わってしまうのは寂しいから、絶対に映画を作らせたかった。だから、『おもひでぽろぽろ』は自分がプロデューサーを買って出た。直接口に出していたわけでなかったですが、「自分が責任を取るから高畑さんに映画を作ってもらいたい」って本気で考えていたと思います。

それで『おもひでぽろぽろ』の制作がスタートするんですが、高畑さんが作るものなので、内容的には問題はないわけで、心配なのはスケジュールでした。そうしたら、やっぱり進行スケジュールが遅れていって、間に合う気配すらなかった(笑)。その時に、宮崎さんが自分で大きな紙にスケジュール(工程表)を書いて、スタッフを全員集めて「万が一この映画が公開に間に合わなかったら、お蔵入りにする。不完全な形での上映は絶対にしない」って断言して。本当に素晴らしい演説で、僕も感動しました。

その時、高畑さんは黙っていたんですが、その演説は効いたと思います。それで高畑さん含めて、絶対に間に合わせるんだって気を引き締めなおして、無事公開までに完成しました。あの時、宮崎さんが登場してなかったら、上映までに作品は完成してなかったと思いますね。僕はその時に2人の友情を感じた。深い絆だなと。だから僕にとっては、監督をしているよりも高畑勲をプロデュースしている宮崎駿の方の印象が強くて。実際に宣伝の時は、宮崎、高畑コンビで稼働してもらったんですが、ガッツリ2人が組んでやった最後の作品なんじゃないかな。

「アニメが差別されない日が来てほしいとずっと思っていた」

——近年は細田守さんとお仕事されていますが、それはどういった経緯なんですか?

高橋:それは鈴木さんのせいなんですよね(笑)。ジブリにいた時に『ハウルの動く城』を細田さんで映画化するから、それを担当しろって言われて。それで鈴木さんに紹介されて、1年以上やって、結果的にはそれはうまくいかなかったんですけど、そこからの知り合いです。

それで細田さんの『ハウル』が頓挫して、少ししてから鈴木さんから日本テレビに話をつけてきたからって言われて、最初は出向という形だったんですが、途中で転籍となって、日本テレビ所属となりました。それが『ALWAYS 三丁目の夕日』(2005年公開)の頃で、その後、細田さんともう1度仕事をするようになりました。

——『サマーウォーズ』(2009年公開)にも関わっていますよね?

高橋:そうですね。途中参加だったので、その時は内容はほぼ決まっていて、主に、お金の管理や宣伝を任されたという感じでした。そのあとは、『おおかみこどもの雨と雪』(2012年公開)、『バケモノの子』(2015年公開)、『未来のミライ』(2018年公開)と、プロデューサーとして関わってきました。

——細田さんとのお仕事の特徴は?

高橋:彼はもちろん、ジブリの作品へのリスペクトはすごくあると思うし、高畑さん・宮崎さんへの尊敬の念も強いと思います。ただ、いまは自分なりに新しいアニメーション映画にチャレンジしよう、少しでもアニメーション映画の可能性を広げようとしている、そんな印象がありますね。

——庵野(秀明)さんがカラーを設立した時にも関わったそうですね。

高橋:これも鈴木さんに言われてですね(笑)。でも本当に“お手伝い”って感じでしたけども。鈴木さんから「庵野が新しいスタジオを作るから手伝ってあげて」と言われて。鈴木さんは『アニメージュ』の頃から庵野さんを応援していて、僕もジブリをやって、会社の作り方は多少知っていたので、立ち上げ時に少し関わったという感じで、運営には全く関与していません。

——長い間日本のアニメに関わってきて、どんなところが変わってきたと思いますか?

高橋:基本的に、アニメのメインストリームはそんなに変わっていないと思います。線画で描いたアニメで、内容は冒険ものというか、若年層向けに前向きなメッセージを伝えるもの。宮崎さんの言葉を借りると「この世は生きるに値するものだ」っていうことをまだ社会に出ていない若者に向けて発信する。

ただ、幅は広がってきているとは思います。ジブリなんかは大人、もっと言えば年寄りでも楽しめるものになってきたんだろうし、全体的に、ジャンルもSF から日常系、歴史ものなど、何でも扱えるようになった。

あと、これは僕が聞きたいんですけど、今はアニメって差別はされていないですかね?

——そうですね。以前と比べてよりアニメが一般的なものになってきていて、「アニメ」に対する偏見も少なくなってきていると思います。

高橋:それなら時代は変わってきたのかな。昔、新聞を読んでいると『紅の豚』でもお子様向け映画みたいに書かれていて。僕が『アニメージュ』をやっていた頃から、アニメ=子供向けって思われていて、それがすごく嫌だった。それがなくなっているなら、それはよかったです。アニメが差別されない日がきてほしいとずっと思っていたので。今はアニメを自由に作れて、それでアニメを見ていても差別されないんであったら、それは進歩だと思う。それは先人が努力したかいがあったというもの。

——最後に今後は宮城県石巻をはじめ、巡回展も予定されているそうですね?

高橋:今のところ石巻は決まっていて、あとはまだ決まっていないんですけど、やる予定ではいます。内容は今回東京でやったのと少し変わると思います。石巻は「石ノ森萬画館」があるので、そこと連動して何かやろうかっていう話も出ています。今回の展示ではやっていない内容もやる予定なので、僕自身も非常に楽しみです。

高橋望
1960年、東京都生まれ。映画プロデューサー。一橋大学社会学部卒業後、1983年に徳間書店に入社。「アニメージュ」編集部にいた縁で、1989年秋にスタジオジブリに出向。『おもひでぽろぽろ』『紅の豚』などを担当。現在は、三鷹の森ジブリ美術館・シニアアドバイザー、特定非営利活動法人アニメ特撮アーカイブ機構・研究員。

■『「アニメージュとジブリ展 」一冊の雑誌からジブリは始まった』(みやぎ石巻展)
会期:2021年6月19日〜9月12日
会場:マルホンまきあーとテラス(石巻市複合文化施設) 
住所:宮城県石巻市開成1番地8
時間 :10:00〜17:00(8月11~15日は10:00~18:00)
 ※新型コロナウイルス感染症拡大の状況により営業日・営業時間が変更となる可能性あり
休日:月曜日(※但し、8月9日は休日のため開館、翌8月10日は休館)
入場料:一般/当日¥1,500(¥1,300)、中・高校生/¥1,000(¥800)、小学生/¥800(¥600)※( )内は前売料金 
※料金、チケット発売情報等は公式HPをご確認ください
https://animage-ghibli.jp
Twitter:@animage_ghibli
Instagram:@animage_ghibli

© 1984 Studio Ghibli・H

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author:

高山敦

大阪府出身。同志社大学文学部社会学科卒業。映像制作会社を経て、編集者となる。2013年にINFASパブリケーションズに入社。2020年8月から「TOKION」編集部に所属。

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