諸星大二郎の壺中天——風格主義的漫画(Manneristic Comics)試論

古代史や神話、伝承などを題材として、非凡な想像力により数々の名作漫画を紡ぎあげた鬼才、諸星大二郎。異端の考古学者が日本各地の奇怪な現象・事件に遭遇する「妖怪ハンター」シリーズ(1974年〜)、パプアニューギニアを舞台に現代文明と神話的世界の交錯を描いた『マッドメン』(1975〜82年)など、いくつもの領域をまたぐ独創性に満ちた作品世界は時を越え数多の読者を魅了し続けている。そんな諸星のデビュー50周年を記念した大規模の巡回展「異界の扉」が開催されている(現在は東京の三鷹市美術ギャラリーで開催されており、会期は10/10まで)。この機に、諸星の深淵なる作品世界に新たな角度から光を当てるべく、暗黒批評家の後藤護に寄稿を依頼した。本稿において後藤が考察対象としたのは、「西遊記」をモチーフとした幻想的な冒険譚『西遊妖猿伝』(1983年〜)をはじめとする中国もの作品。澁澤龍彦との接続線を糸口として、諸星作品のマニエリスム美学の深淵へと迫る。

諸星作品における澁澤龍彦的なマニエリスム美学

諸星大二郎『諸怪志異(2)-壺中天』(双葉社)

「暗黑美学大师」なる肩書とともに涩泽龙彦(Shibusawa Tatsuhiko)がいま中国で大量翻訳されていることをご存じだろうか? ドラコニア澁澤がいよいよ龍の国チャイナに帰ったという感じで感慨深いが、なぜ一見関係ないようなこんな話から始めたかというと、諸星大二郎の初期作「夢みる機械」(1974年)に「市井の哲学者」を自称する「渋川立彦」なる人物が出てくるからである。

諸星の澁澤への関心は高い。同じく74年に発表した錬金術マンガ「肉色の誕生」を覗くと、パラケルススを崇拝するマッド・サイエンティストの本棚にはユイスマンス『さかしま』だのエリファス・レヴィ『高等魔術の教理と儀式【ママ】』だのいかにもな澁澤趣味全開のタイトルが並べられている。また「ユリイカ」の諸星特集号のインタヴューを見ると、これまた74年発表の代表作「生物都市」の着想源に澁澤本があったことを明らかにしている程だ。

しかしこうした表面的な言及以上に、「妖怪ハンター」シリーズで民俗学的フィールドワークを描きながらも自らは出不精を自認し、夥しい書物を駆使してブリコラージュ的に作られたモロホシワールド自体が、そもそもシブサワワールドと同じような極度に人工的な作られかたをしているのではなかろうか? シブサワワールド、と簡単に片付けてしまったが、その根底にあるものはミニチュア偏愛の、室内遊戯的なマニエリスム美学であろう。

「夢みる機械」「肉色の誕生」「生物都市」が発表された74年には、澁澤マニエリスム美学の最高峰と目される『胡桃の中の世界』(青土社)が刊行されている。その名の通り極小の胡桃の中に極大の世界が格納された、所謂ミクロコスモスとマクロコスモスの照応(対立物の一致)をテーマにした本で、机の上でブッキッシュに小宇宙を操作する幼年皇帝のこの魔的権能は、J・フレイザー『金枝篇』の「肘掛け椅子の人類学」にも通底するもので、つまりはモロホシ暗黒民俗学のインドア的な在り方にも手法的に一致する。古本屋の娘と新刊書店の娘2人が活躍する「栞と紙魚子」シリーズにおけるボルヘス「バベルの図書館」への言及からして、諸星が書物の堆積から自己形成してきた迷宮的人間であることはほぼ疑いないように思える。

「壺中天」という中国式ミクロコスモス、そこにあらわれる西洋美術史からの強い影響

さて、この諸星の澁澤的マニエリスム趣味が最も顕著なのが『西遊妖猿伝』に代表される一連の中国ものマンガである(ちなみにこの記事のサブタイトルの「風格主義」はマニエリスムの中国語訳)。最初に取り上げたいのは「諸怪志異」シリーズ(双葉社アクションコミックス全四巻)の第二巻『壺中天』で、同名タイトル作は、小さな壺のなかにアナザーワールドの天地が広がっているという驚異譚だ。この「壺中天」という中国式ミクロコスモスは、諸星のみならず澁澤の隣人である種村季弘をも捉えたようで、日本文学史をマニエリスムの観点でまとめた書物を『壺中天奇聞』と名付けてしまったほどである。

同書収録の「三山図」も壺中天の一ヴァリエーションとして特筆に値する。ある木こりが江州の山中で三つの(人間くらいの大きさ)の奇岩と「鎮」の文字が封じられた玉を発見する。皇帝に上奏するためにその玉を引き取った県令は、奇岩の存在も知ることになり現地に赴くと、気に入って邸の庭に運び込ませた。奇岩は湿気が多い日は白い蒸気を発して、さながら仙山に白雲がかかったような趣きであったゆえ、県令は眺めるのに飽き足らず陶然として庭の石の中に踏み出し、気が付けばそのミニチュア世界のなかに迷い込んで、雲の上を飛んでいた。

県令が天上界に逢着すると、あの3つの奇岩は蓬莱(ほうらい)・瀛州(えいしゅう)・方壺(ほうこ)の3つの仙山の立体縮小地図即ち「三山図」だと明かされ、赤脚大仙(せっきゃくたいせん)が地上に置き忘れたものだと判明する。県令が庭の三奇岩(ミクロ)から聳え立つ三仙山(マクロ)にトリップする描写は的確に壺中天のヴァリエーションであるわけだが、それ以上にこのマンガで僕の印象に残ったシーンは、赤脚大仙が3つの奇山(立体)をクルクル巻いて一枚の巻物(平面)に次元変換してしまうマジシャンの手つきであった【図】

出典:諸星大二郎「三山図」、『諸怪志異(二)壺中天』(双葉社、1991年)、206頁。

この描写はしばしば諸星がフェイヴァリットに挙げる画家サルヴァドール・ダリの『水の影に眠っている犬を見ようと、細心の注意をもって海の皮膚をつまみ上げている幼女である私』(1950年)【図】の想像力やテクスチャーに近いもので、ダリの「海の皮膚」にちなんで言えば諸星は「石の皮膚」をつまみ上げたと言える。

Salvador Dali – “Dali at the Age of Six When He Thought He Was a Girl Lifting the Skin of the Water to See the Dog Sleeping in the Shade of the Sea” (c)Salvador Dali
(出典:https://www.wikiart.org/en/salvador-dali/dali-at-the-age-of-six-when-he-thought-he-was-a-girl-lifting-the-skin-of-the-water-to-see-the/ / Fair Use )

ここでダリの名に突如言及したのは、日本民俗学や中国説話の印象が強い諸星が、実は西洋美術史からも強い影響を受けていることを言いたかったからで、特に『失楽園』ではボス、ゴヤ、デ・キリコ、ダリからの露骨な引用が見られる。その視点で諸星マンガの1つの金字塔と目すべき、東北の隠れキリシタンを描いた「生命の木」(1976年)の有名な昇天シーン「おらといっしょにぱらいそさ行くだ‼」を見てみると、意外なソースが浮かび上がる。

デビュー50周年記念「諸星大二郎 異界への扉」展ではこのシーンをティントレットの「キリストの昇天」と並べているが、ハッキリ言って「無重力」のモチーフだけで両者を並べても視覚的に説得力に欠ける(たとえG・R・ホッケが「浮遊」をマニエリスム美術最大の特徴と見なしていたとしてもだ)。むしろ本作の6年前の1970年に種村季弘によって翻訳刊行された、ホーフシュテッター『象徴主義と世紀末芸術』に見開きページでデカデカ掲載されたルイ・ブーランジェ『夜宴の輪舞』とアルベルト・マルティーニ『地獄の最後の時』の連続する二枚の図版を合成したイメージに思われる【図】。構図的にも、夥しい人間や魑魅魍魎の連続感・量塊感的にも「生命の木」のシーンとの類似度は高い。

二元論が生じる前の原初的合一性への憧憬

閑話休題。中国ものへと話を戻そう。諸星の中華風格主義を最も如実に示した「無面目」を最後に取り上げたい。天窮山に住む、天地開闢以前から思索を続けていた無面目と綽名された神仙がいて、顔がないのっぺらぼうでもあった。そこに別の2人の神仙が現れ、試みに人間の顔を書いてみると人間的自我に目覚め、世俗で権力欲にまみれて堕落して最後には死んでしまう。【図】

ここで注目すべきは無面目の本名が「混沌」であることだ。異端中国文学者の武田雅哉「宇宙卵クンルンの謎」によれば、このマンガは『荘子』「応帝王篇」に見える混沌神話から取られたものだと分かる。武田によれば黄河の源とされた伝説の山「崑崙(kun-lun)」と「混沌(Hum-Dun)」は音韻学的に同一グループのもので、この二語は中国神話初の人間である盤古によってカオスが打ち破られ二元論が生じる前の原初的合一性、いわゆる「宇宙卵」をイメージさせる宇宙的タームなのだという。

さらにラーメンの上に載ってるワンタン(hun-tun)もこの同じ音韻グループだから、ワンタンもまた宇宙卵の断片なのだという武田の綺想(?)はさておき、混沌(Hum-Dun)と卵人間ハンプティー・ダンプティー(Humpty-Dumpty)の洋の東西を超えた音韻的一致には目を瞠るものがある。一度割れたら二度と元に戻らない卵人間の悲劇は、卵型の面に顔の造作を書き込まれた瞬間に破滅へのカウントダウンを始める混沌(無面目)の神話に忠実に対応している。壺中天、三山図と続いたミクロ・マクロ照応の諸星風格主義の行き着く先は、天と地、陰と陽が未だ別れず対立物の一致を果たした、「全体性のイメージ」(エリアーデ)としての宇宙卵への憧憬であった。

出典:諸星大二郎『無面目・太公望伝』(潮出版社、1993年8刷)、16頁。
卵型の面にエッグアートさながらに顔を書き込まれることで凋落を始める混沌は、宇宙卵崩壊の神話を反復している。

author:

後藤護

暗黒批評。著書に『ゴシック・カルチャー入門』(Pヴァイン、2019年)、『黒人綺想音楽史 迷宮と驚異(仮)』(中央公論新社、2021年予定)。『金枝篇』(国書刊行会)訳文校正を担当。「キネマ旬報」「映画秘宝」「文藝」「ele-king」「朝日新聞」に寄稿。『機関精神史』編集主幹。 http://note.com/erring510  Twiiter: @pantryboy

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