「ミスターイット(mister it.)」のデザイナー・砂川卓也(いさがわたくや)は、スカーフ作りを仕事とする父と、油絵を描いていた母から大きな影響を受け、幼少時からファッションへの興味が自然と芽生えていく。そんな砂川だが、彼は10代の多くをファッションではなくサッカーに費やしていた。
しかし、情熱を注いでいたはずのサッカーに諦めを覚える瞬間が訪れる。高校2年時のある試合で、プロになれる人間と、なれない人間には明らかなレベルの差があることをリアルに痛感したのだ。その瞬間、砂川は次の目標に向けて動こうと頭が切り替わる。
「次にやるものでは、もう絶対に後悔したくない」。
砂川は、サッカーで「あの時にこうしておけばもっと良かった」という後悔が強くあった。この思いは、その後の彼の道を切り拓く大きなパワーになるのだった。こうして、子どもの頃から身近にあったファッションへの道が本格的に始まる。
大阪からパリへ渡り、目標としたメゾンでの経験を経て、2018年、砂川は東京の地で自身のブランド「ミスターイット」を設立する。本企画は、彼が過ごしたパリの話から始めたい。
服を作るのは1人ではなくチーム
――大阪のエスモードに入学し、そこからエスモードパリに留学され、卒業後に「メゾン マルジェラ」でキャリアをスタートさせています。入社面接では、フランス語の自己アピールを事前に覚えて臨んだと伺っています。
砂川卓也(以下、砂川):当時の僕はまったくフランス語が話せませんでした。そこで、日本語とフランス語を話すことができる友達に、自分が言いたい自己アピールをフランス語に訳してもらい、その友達にフランス語で自己アピール文の音読もお願いして、録音しました。毎日その録音を聴いて丸暗記できるようになったら、発音もいつのまにか完璧になっていました(笑)。
――(笑)。面接の時にはいろんな質問がされたと思うのですが、どう答えていたんですか?
砂川:その時は全部「ウィ(=日本語の“はい”)」と答えて、笑って乗り越えましたね(笑)。ただ、面接に受かって入社後、5分もしないうちに、フランス語がまったくしゃべれないことがバレてしまいました。
――そこからどうされたんですか?
砂川:仕事が終わってから帰宅後、毎晩フランス語でエピソードを話す練習をしました。それもただのエピソードではなくて、自分がミスしてしまったちょっとおもしろい話。そう、みんなに笑ってもらえそうなエピソードをあえて考えて、間違ったフランス語でもいいから、絶対翌日にそのエピソードを話すという気持ちで毎晩練習し、翌日、出社した時に話していました。それを毎日続けていたら、気が付くとフランス語で会話ができるようになっていました。
――「メゾン マルジェラ」では、どのように仕事に取り組んでいましたか?
砂川:僕はインターンから入社したのですが、働き始めてすぐにデザイナーのボスから「このブランドはインターンとか社員とか関係なく、おもしろいアイデアがどんどん形になっていくから、遠慮せずアイデアをバンバン出してほしい」と言われました。年功序列や立場よりもアイデアを大切にするこんな環境なら、やっぱりモチベーションがめちゃくちゃ上がりますよね。求められることに対して、僕は100%ではなく200%で返す。それを常にやっていました。
――そうして信頼を獲得していったんですね。
砂川:インターンを初めて3ヵ月経った時、社長に呼ばれて「卓也、今後どうしたい?」と聞かれる機会がありました。そこで僕は「将来は自分のブランドをやりたいと思っているけど、それまではパリに残りたい」と伝えました。すると社長から「じゃあ、もう正社員だ」と言われて、その瞬間からコレクションラインとオートクチュールを担当することになったんです。ただ、1つ言えることは自分だけでデザインしたという洋服は1つもないということです。チームのみんなでアイデアを積み重ねてアップデートしていきながら、作っていったものが洋服になるという形でやっていたので、僕1人で0から100まですべてやりましたというアイテムは1つもないです。
伝えたい「ありがとう」がコレクションの原点
――「ミスターイット」のブランドコンセプトを教えてください。
砂川:ひと言で言うと「身近なオートクチュール」になります。オートクチュールと言うと、レッドカーペットで歩くセレブのために作る服というイメージがありますよね。実際にそういう服作りを経験してきましたが、オートクチュールをもっと身近なものにしたいという思いが生まれてきました。自分の身近な人を思い浮かべて、こういう服ならば喜んでくれるとリアルに考え、そうして作った服に共感してくれる人達に広まれば、すごく嬉しいと思っています。
――砂川さんは「メゾン マルジェラ」というモードの王道にいらしたにもかかわらず、「ミスターイット」は出会う人達というリアリティがテーマになっていて、大変興味深いです。
砂川:洋服は遠い存在じゃなくて身近なものでありたい、身近なものを作りたいというのがやっぱりあります。「ミスターイット」のコレクションの中でアートピース的な洋服を作ってもいますが、それも意図があります。アートピースは実際に街で着てほしいというイメージよりも、その洋服を見て楽しんでほしいという思いがあります。「あ、洋服ってこれでもいいんだ」とか、「こんな作り方でもいいんだ」とか、洋服を見て楽しんでもらいたいです。
――日本で「ミスターイット」を本格始動させる前に、パリで自身のコレクションを制作していますが、どのようなコレクションだったのでしょうか?
砂川:自分のブランドをどう始めようかと考えて、その時にゼロのことをしっかりしておきたいと思いました。当時一緒に働いていた人達に、これまでの感謝の気持ちを返したいと、「コレクションゼロ」というタイトルで、今まで一緒に働いてきた人達のためだけの服を作り、その服をプレゼントしました。
――「コレクションゼロ」はどのように発表したのですか?
砂川:パリのあるショップを貸し切って、みんなに集まってもらいました。みんなの前で「これはあなたの洋服です。あなただからこういう服を作りました」と1人1人に、プレゼンテーションしました。
――反応はどうでしたか?
砂川:めちゃくちゃ喜んでくれて、そう、あのなんて言うか、とにかくめちゃくちゃ喜んでくれて、本当に感動してくれてましたね。
――みんなの姿を見て、やっぱり砂川さん自身も嬉しかったんですね。
砂川:とても嬉しかったです。もう本当に嬉しかったですね。無駄なことは考えず、シンプルに「ありがとう」を伝えたくて作った。ただそれだけをやりたかったので。それを実現できたことが、すごくよかったです。
人間がテーマとなる愛着あふれる服
――2021AWコレクションのテーマはなんでしょうか?
砂川:作り手の人にフォーカスすることを強く意識したコレクションになっています。生地を作る人、糸を作る人、縫製工場の人、本当に多くのいろんな人達が関わってコレクションが完成するので、作り手達のみんなをちょっと巻き込みたいなと思ったんです。
――展示会場を訪れると、何やら人の話し声がBGMとして流れていました。あの声は誰の声で、一体どんなことを話していたのですか?
砂川:このコレクションの制作に関わってくれた人達の何かを集結させたいなと思って、それなら声がいいんじゃないかと思ったんです。
――つまり、あのBGMの声は作り手達の声だったんですか?
砂川:そうです。プリントをしてくれた人、縫製工場の人、撮影で関わってくれた人、本当にたくさんのいろんな人の声を録音して、その声を展示会場でインスタレーションのように流しました。展示会場では洋服の後ろから声が聴こえてくるようにし、ルックブックを置いた場所の下からも声を流すようにしていました。
――会場に流れていた声は、日本語には聴こえなかったのですが……。
砂川:あんまりシリアスにしたくなくて、やっぱりキャッチーにしたかったので、あえて作り手のみんなに英語で喋ってもらいました。もうカタカナ英語で、その作り手がどんな服を作ったかというのを、わかりやすく「私は何々を作りました」とひと言だけ喋ってもらっています。会場では1人の人間がたくさん話しているように聴こえたかもしれませんが、実際には1人の人間がひと言だけ、それをたくさんの人が話していたということになります。
――2021AWコレクションでは大胆なプリントのブルゾンを発表していましたが、まるで絵画が描かれているような迫力のプリントでした。あのプリントには何が描かれているのですか?
砂川:プリントには「コレクションゼロ」でテーマとした人達が、パリの実際のアトリエで働いていた風景が描かれています。
――ブルゾンは服をキャンバスに見立てて絵が描かれているようで、本当に迫力があって驚きました。あのプリントは、作り手という今回のコレクションテーマがすごく伝わってきます。
砂川:もうストレートに勢いよく作りたいと思って、このようなプリントになりました。
――コートも印象深かったです。トレンチコートのように見えて、ステンカラーコートのような印象も受けて、でもダッフルコートのようにも感じられて。あのコートはどのように発想したのですか?
砂川:このコートに関して言うと、以前ある人から今回のコレクションのコートと同じ素材のメルトンを使ったブルゾンを、プレゼントとしてもらいました。それを連想させて、プレゼントでもらったブルゾンと同じ色のアウターで返したらいいかなと思って。もらったものをこうやって返すよみたいな、そんなことをイメージしながら作ったコートです。
――リボンなどコートのディテールもおもしろいです。
砂川:いろんな表情で着られるのが「ミスターイット」の特徴だと考えています。それこそ、その日の気分でコートのウエストを絞って着たい時もあれば、フラットにして着たい時もあるだろうし、着方を少し変えるだけでも、かなり見え方が違ってきます。このコートもリバーシブルで、裏にすると白のパイピングがディテールとして見えてきます。
――「ミスターイット」というとシャツの印象が強く、定番シャツではカフスに見られる小さくて黒いハートが印象的です。今回の2021AWコレクションのシャツでは新しい特徴がありますか?
砂川:小さなハートをカフスに入れたのは、ひさびさに友達と会って握手しようとした時、目に入るようにするためでした。そのハートがきっかけとなってコミュニケーションが生まれる。そんなふうにシャツを使ってもらいたいイメージがあったんです。でも、今はやはりコロナ禍にあって友達に会ったとしても、握手することに違和感や抵抗があるのではと思いました。それなら、例えばポケットから何かを取り出すさりげない仕草の時に、ちらっとハートが見えるぐらいが今はいいんじゃないかと、シャツの内側にインナーベルトのようにもう1本前立てをディテールとして加えて、その前立てにハートを小さくプリントしたんですよね。
――今の世の中のムードを、服に反映させたいということでしょうか?
砂川:トレンドというよりも「今、ブランドとして何が必要か?」と思うこと、現代に合わせたもの作りをしたいですね。例えば、シャツは本当に何百年もベースの形は変わっていませんが、自分が今持っているシャツと何百年も前のシャツでは、生活の仕方は絶対違うじゃないですか。それなのに今も同じディテールや同じ仕様というのにやっぱり違和感があって。ただ、シャツのアウトラインとかベースの部分はとても素晴らしいものがあるので、そのベーシックさは保ったまま、ブランドが思う今っぽさを入れてアップデートしていくことを意識して作っています。
ストーリーは、服を着る人の心の中にある
――「ブランドが思う今を作りたい」ということですが、今コロナ禍によって状況が変わり、世界が変わり、ではこれからの時代にどういう服を「ミスターイット」は作っていきたいのか、そのビジョンや思いを聞かせてください。
砂川:常に洋服をアップデートしていくのはもちろんですが、それよりも僕が意識していることがあります。それは洋服のデザインだけじゃなくて、洋服をどう届けるかということをしっかりデザインしたいということです。
――それは、オンラインストアのようなものですか?
砂川:いえ、オンラインストアというよりも、自分としても洋服を長く着てもらいたいという気持ちがあって、長く着てもらうためにどうすればいいかということを、かなり考えています。そのために、ちょっとした仕掛けを作るようにしています。例えば、先ほどのコートに使っている「ミスターイット」のオリジナルハンガーがあるのですが、これは普通の針金ハンガーにカバーを掛けたものです。
――これはおもしろいです。ありふれた針金ハンガーが特別に見えてきます。
砂川:ハンガーを作るというアイデアから、ハンガーカバーを作るというアイデアにたどり着きました。針金ハンガーは、たぶんみなさんが持っているハンガーだと思うんですけど、そういった普通のハンガーにカバー1つ掛けるだけで、その人のハンガーになります。服を返す場所があれば、服を大切に長く着てもらえるんじゃないか、この服はここに返すんだと決まっていたら、人はその場所へ絶対に服を返すと思うんです。
――服を戻したくなる場所があれば、人は服を大切にしてずっと着ていくのではないかと?
砂川:このハンガーカバーは取り外しもできます。形を広げて、この切り込み部分に花を1輪差し込むこともできます。花を1輪差し込んだハンガーカバーと、例えばシャツを一緒にボックスに入れて誰かにプレゼントすれば、もらった人はボックスを開けた時に花とシャツが見えた瞬間、嬉しいんじゃないかなと。こういう服の届け方自体もデザインが必要だと思っています。
――素晴らしいアイデアです。こんなふうに服が届いたら、自分だったら大切に着たくなります。
砂川:一般的に長く着られる服というのは、仕立ての良さや、ベーシックさではないかと思います。でも「ミスターイット」の長く着られる服というのは、服の中に何かストーリーや思い入れがある服だと考えています。実は、前のシーズンからあえてパーソナルなストーリーを伝えないチャレンジをしていて。アイデアの出発点としてインスピレーション源の人がいて、ストーリーがあるわけですが、実際に着てくれる人達には、その人だけのストーリーをこれから作ってもらいたい。着る人に委ねるじゃないですけど、こちらから伝えすぎずにその人が好きなように着て、好きなストーリーを作ってくれるのが理想だと思うようになりました。
今回のインタビューでとても印象に残ったのは、パリで働き始めた時、フランス語がまったく話せないことがスタッフ達に判明してからの行動だった。この時砂川は、自分が笑われるユーモアを盛り込んだエピソードを準備する。危機感が迫り、強い焦りを覚える状況だというのに、彼はユーモアを選んだ。この姿勢こそ、まさに「ミスターイット」そのものかと思う。
シリアスで刺々しくもなる世の中を、こぼれる笑みが救うこともある。砂川はファッションにユーモアを乗せて、笑顔を届ける。そっと優しい、人を傷つけることのないユーモアを、パリの地で磨いたエレガンスとともに。インタビューの最後に彼に尋ねた質問がある。それは「服作りをしていて一番幸せを感じるのはどんな瞬間か」。この質問に砂川が答えた言葉を最後に伝え、終わりにしたいと思う。「ミスターイット」は人間を愛する。
「やっぱり作ったものがお客さんのところに届いて、喜んでもらう、本当それですね。それに尽きます」。
砂川卓也
エスモード大阪を経てエスモードパリ卒業後、2018年、東京にて「ミスターイット」を設立。フォルム、素材、色、それら服を構成するあらゆる要素をダイナミックに組み合わせ、リアルとモードのはざまをデザインする。エレガンスとユーモアが1つになったコレクションは、性別を超えて人間の魅力を引き出そうとするかのような多様性が備わっている。
http://misterit.jp
Instagram:@misterit75003
Photography Shinpo Kimura