東京からパリへ、パリから世界へ

阿部潤一は服をあらゆる場所から捉える

ポール・セザンヌという画家の名前に聞き覚えのある方は多いと思う。20世紀を代表する画家であり、「近代絵画の父」と評される画家の作品を、美術の教科書などで見た経験がある方もきっと多いのではないだろうか。当初セザンヌは、クロード・モネやピエール=オーギュスト・ルノワールといった印象派の一員として活動していたが、後に印象派から離れて新たなる表現を確立し、その作風はパブロ・ピカソやアンリ・マティスといった画家にも大きな影響を及ぼしていった。

そんなセザンヌの描いた絵画の1つに『リンゴのバスケット』という作品がある。私はこの絵を見た時、不思議な感覚にとらわれた。この作品は木製テーブルの上に瓶や白い皿と共にいくつものリンゴが、籠や白い布の上に置かれた様子を描いた静物画なのだが、通常の静物画からは感じられない違和感が襲ってくる。

作品のアングルは上から斜めに見下ろしたものに感じられるが、絵を見つめていると次第にテーブルの上に置かれたリンゴが、上だけでなく真横から見たようにも感じられてきた。リンゴを異なる角度から同時に見ているような不思議な感覚は、リンゴがテーブルから落ちそうにも見え始め、けれど絵の中では木が土の中に根を張るように、落ちることなくしっかりとリンゴがテーブルの上に置かれている。

1つのアングルから、多面的アングルが感じられる不思議な感覚。私はセザンヌの絵画から覚えたこの感覚と同様の感覚を、あるブランドのコレクションからも実感する。そのブランドとは阿部潤一による「カラー」である。

2021-22 FWシーズンに発表された「カラー」のコレクションには、服を様々な角度から捉えて描写されたような不思議で多面的なデザインが展開されている。今回「カラー」は4年ぶりのランウェイショーを初となる東京で開催し、その映像が2021-22 FWパリ・メンズ・コレクションの公式スケジュールでライブ配信された。

ランウェイを歩くモデル達の服は、ニットやジャケット、カーディガンにスタジアムジャンパーなど、1点1点のアイテムを見れば私達に馴染み深いものばかり。誰もが一度は見たことがあり、着た経験のある服が一着はあるだろう。

しかし、普通でありふれたはずの服が「カラー」のコレクションでは異彩を放つ。こんなニットを今まで見たことないといった具合に。例えば、6番目に登場したモデルはトップスにシャツを着用し、その上にプルオーバータイプのニットをレイヤードした、トラッドスタイルのスタイリングを見せている。

だが、ルックを見ればニットの外観が歪であることにすぐに気づく。とりわけ目を惹きつけるのはネック部分だ。2種類のVネックが襟元に配されているが、青色のVネック部分が半分切り取られ折られていることで、まるで3種類のネックラインが混在しているような、想像力が拡大されるポジティブな誤読を誘う。1着のニットから多角的視点が感じられるデザインだと言える。

このルックではチョークストライプのテーラードジャケットに、2種類のチェック柄素材が内側に合わさり、そこに加えて何やらライトグレーのニットカーディガンらしきディテールも見られる。

そしてこちらのルックに至っては、スタジアムジャンパーの上からライダースの衿が重ねられ、加えて渋い紫とも小豆色とも言える色の、光沢感ある布地がライダースの黒い衿の下から覗き見え、まるで服の裏地が断片的に見えるような感覚を私は覚えた。

最近の「カラー」は、このように服が断片的に混じり合うデザインが特徴的ではあるが、2021-22 FWコレクションにおいては改めてこの多面的デザインが持つ不思議な感覚が迫ってくる。「カラー」の2021-22 FWコレクションを見ていると、こんなイメージが私の中に浮かんできた。

「カラー」のデザイナーである阿部が「テーラードジャケット」と言葉に出して人々に投げかけ、その言葉を耳にした瞬間人々の脳内には、様々な角度から捉えたテーラードジャケットのイメージが浮かび上がる。ある人はジャケットのラペル部分に焦点が合い、ある人はジャケットの身頃に、もしかしたらジャケットの裏地に焦点が合う人だっているかもしれない。

そんなふうに様々な角度から様々な場所へフォーカスされたジャケットのイメージを、世界でただ1人阿部だけが人々の脳内を覗き見ることができ、無数のイメージの中から阿部がおもしろいと思ったテーラードジャケットの断片イメージを集めて繋ぎ合わせたとも言えるデザインは、セザンヌが描いた多面的視点の絵画と同じ視点のエレガンスを私に訴えてくる。

そしてそれは、1つのアイテムだけに限定されるものではなく、複数アイテムの断片イメージがドッキングされた状態にまでデザインは拡張されていく。

こうしてコレクションを詳細に見ていくと、セザンヌの絵画と「カラー」が見せる多面性には違いがあることも感じられてきた。冒頭で述べたようにセザンヌは様々な角度から捉えたリンゴの形を複数描いているが、「カラー」は服の様々な場所を捉えて一つにした多面性がデザインされている。角度と場所、複数と1つ、そのように多面性の表現方法の違いにクリエイティブなおもしろさが潜む。

1着の服の中にさまざまな服の見え方があってもいいのだと、私は服に対する常識を改めさせられる。それだけのパワーを、2021-22FWシーズンの「カラー」は見せてくれた。誰もが知っているベーシックなアイテムを用いながらコンセプチュアルな背景も感じさせる形に作り上げ、ファッション的にも魅力あふれるデザインとして両立させた阿部の力量には感嘆せざるを得ない。

傑出した領域に到達する井野将之

今私が最もすごみを感じる日本人デザイナー、それは「ダブレット」の井野将之だ。井野がデザインする「ダブレット」は発表を重ねるたびに迫力を増している。私が思うのは、我々が思う以上の素晴らしい才能を彼は持っているのではないかということ。

もちろん、2018年に今や世界No.1のファッションコンペとなった「LVMH PRIZE」でアジア人初となるグランプリを獲得したことで、井野の資質はすでに証明されている。しかし、それだけの形容では彼の実力と才能を語るには物足りなく思えてしまう。それほどのすごみを、私は今の「ダブレット」から感じている。

「カラー」と同様に「ダブレット」も東京でランウェイショーを開催し、それがパリの公式スケジュールで配信されたが、ここでは「ダブレット」の2021 FWコレクションから私が感じた、ありのままの感情をダイレクトに語っていきたいと思う。それはもしかしたら、他の誰とも共有できない感情かもしれない。しかし、語ることを試みたい。

「いったい、なんなんだ、これは……」

私は「ダブレット」のショー映像を観ている途中で、自然とそう呟いていた。ショーの冒頭から違和感が先立つ。モデルたちの歩行姿がぎこちなく、妙なのだ。最初は雨によって濡れた路面を滑らないよう慎重に歩いているから、そのようなぎこちなさが現れているのかと考えた。

ショー会場となったのはスクラップ工場で、モデル達が歩くすぐそばではパワーショベルが車やロッカーを押し潰している。はずだった。当初の想像は裏切られる。映像が進むにつれ、潰れていたはずの車やロッカーが元どおりに戻り始めたのだ。しかし、違和感はそれだけで終わらない。完璧に潰されていた車やロッカーが、完璧な形に戻っていく様子があまりにスムーズで明らかにおかしい。

ショーのフィナーレになっても、違和感は拭えない。モデル達が全員現れ、前方に向かって一斉に歩いていく様子はどのブランドのどのショーでも見られる、ありふれた光景。だが、やはりモデルたちのたどたどしく奇妙な歩き方に変わりはない。モデルたちはランウェイとなった水溜りのできた道の先端まで到達すると今度は前方に身体を向けたまま、すべてのモデルが後ろ歩きで退場していった。それが後ろ歩きとは思えないほどに速く、やけに流れるようにスムーズなのだ。しかも全く後ろを振り返ることなく歩いていき、カーブもスムーズに曲がっていく。

「人間はこんなにもうまく後ろ歩きで、歩けるものなのか?」

ショー映像が発表されたあとに、私が抱いた疑問の答えが明らかになる。このショー映像は井野の仕掛けによって演出されたものだった。フィナーレとはショーの最後に行われるもの。きっと多くの人々がそう認識しているだろう。井野はその認識を逆手に取っていた。実際に現地で行われたショーはフィナーレから始まり、スタートへ向かって進行して終了していたのだ。その様子を撮影し、逆再生することであたかも通常のショー通りに進行しているように見せかけていたのが、このショー映像だった。

なぜ時間は進行するのが当たり前だと思うのか。時間が逆行することもあるのではないか。

井野は人間の思い込みを利用し、そこを崩しにかかる。前シーズンの2021SSコレクションでも井野は、ショーや映像の最後に思いもよらぬ仕掛けを披露した(観ていない方のために、ここで詳細を語ることは控えよう)。まるでミステリー小説家が物語の謎を解き明かすように、観ている者の思い込みを崩す。そこには必ずユーモアを添えて。

それはショー演出に限った話ではない。コレクションもそうだった。私は「ダブレット」を見ていると、昭和の下町ヤンキー感あふれるスタイルが連想されてきて、しかし、そのファッションは私にとって忌み嫌うものだった。

私は神奈川県川崎市の南部に生まれ育ち、住み続けてきた。今では川崎駅周辺の再開発が成功し、商業施設やタワーマンションが建設され、街の景色は劇的にきれいになった。しかし、私にとっての川崎とは小学生時代を過ごした1980年代にある。工場、風俗、ヤクザ、ヤンキー、そして時折発生する全国ニュースになる犯罪。それが私にとっての川崎であり、私がミニマリズムの服を好むのも子どもの頃に見た川崎の景色が、反動になっているのではないかと思うほどだ。それほどに、私は1980年代当時川崎で見たファッションに魅力を感じていなかった。

しかし、当時川崎で目にした人々の服装に「ダブレット」が驚くほどに重なっていく。そのことに私は驚いてしまうのだ。私がクールやエレガンスとは程遠いと思っていたファッションに、井野は美を発見して、それを世界唯一と言っていい自分だけのオリジナルな世界としてモードの舞台に上がらせた。そして、そのコレクションに私は惹き寄せられてしまう。嫌っていたはずのファッションに魅せられていくなんて。

2021-22 FWコレクションにはぬいぐるみがコートやシャツ、バッグに取り付けられていた。一瞬、私はウォルター・ヴァン・ベイレンドンクを思い浮かべるが、「ウォルター」とは違う表現で異なる文脈に「ダブレット」は位置している。

「ウォルター」はぬいぐるみのように通常ファッションに用いないであろう要素を、アグレッシブなデザインの服に乗せていくが、井野は違う。あくまでリアルでカジュアルな服にぬいぐるみを用いる。リアルなはずの服が、リアルを失っていく。リアルなアヴァンギャルドという矛盾した表現が浮かぶほどに、「ダブレット」のコレクションにはパワーがあふれている。

「ダブレット」のこのようなデザインが市場で受け入られるようになったのには、もちろん時代の変化も関係しているだろう。デムナ・ヴァザリアの登場により、美醜の醜に美しさを見出すアグリー(醜い)が、ファッションデザインにおいて時代の主流となった。戦後の1950年代に育まれたパリ伝統のエレガンスとは、全く異なる価値観を持つ美意識をデムナは提示し、それが世界を熱狂で覆った。

しかし、デムナのデザインも「ダブレット」を観察したあとでは、私には洗練されているように感じる。私にとっては「ダブレット」の方がよりアグリーだと言えるのだ。デムナの切り拓いた地平を、「ダブレット」はさらに押し広げた。押し広げた地平の端に捨てられていたものを、井野は拾い上げる。これは美しいのだと。そのような感覚を持つからこそ、私は井野にこれほどのすごみを感じるのかもしれない。

いったい井野はどのようにしてこの感覚にたどり着き、開花させることができたのか。開花の過程において井野はどんな思考と感情を繰り返してきたのか。そこには一体どんな苦悩と葛藤、そして創造への高揚があったのだろうか。その秘密に私はミステリー小説を読むように惹き込まれていく。

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author:

AFFECTUS

2016年より新井茂晃が始めた“ファッションを読む”をコンセプトに、ファッションデザインの言語化を試みるプロジェクト。「AFFECTUS」はラテン語で「感情」を意味する。オンラインで発表していたファッションテキストを1冊にまとめ自主出版し、現在ではファッションブランドから依頼を受けてブランドサイトに要するテキストやコレクションテーマ、ブランドコンセプトを言語化するテキストデザインを行っている。 Twitter:@mistertailer Instagram:@affectusdesign

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