映画監督・杉田協士 × 詩人・高橋久美子 対談後編 「見過ごされがちな日常にある豊かな時間を描く」

第32回マルセイユ国際映画祭のインターナショナルコンペティション部門にてグランプリ、俳優賞、観客賞の3冠を受賞するなど、各国の映画祭で高い評価を得ている杉田協士監督の最新作『春原さんのうた』は、歌人・東直子の短歌が原作。今回、杉田監督と、詩人として活躍する高橋久美子との対談をお届けする。

前編では2人の出会いから『春原さんのうた』や映画と短歌の共通点について語ってもらったが、後編では『春原さんのうた』の撮影方法や2人が愛する詩や短歌の魅力について話を聞いた。

※一部、作品の内容に触れる記述があります。展開には触れていませんが、映画を観ていただいた後にも読み返していただくと、作品世界をより楽しんでいただけると思います。

心に留まった人の生活を、見守るように撮っている

──お二人の共通点を自分なりに考えた時に、余白を大事にする姿勢ではないかと思いました。そしてお話を聞きながら、お二人の作品に余白を感じるのは、自然を自然なまま切り取ることを大切に、日常をつぶさに見つめていらっしゃるからだと感じました。

高橋久美子(以下、高橋):そうかもしれませんね。人が好きなので、よく見てしまうんですよ。今日も、聖蹟桜ヶ丘の駅に着いて、駅の周辺のベンチに座っている方やクリスマスプレゼントを抱えている子ども(取材は12月24日)など、じっと見てしまって。そこだけを切り取っても、その人自身の歩んできた人生の奥行きを感じますよね。なんか、無意識の姿っていいんですよね。発表会でステージに立っている姿よりも、舞台袖で待機している姿にグッとくるみたいな。

杉田協士(以下、杉田):わかります。『ひかりの歌』を撮影している時に覚えた感覚で、もしかしたら私は街でたまたま見かけて心に留まった人を、フィクションの力を借りて追いかけて、その人の生活をしばらく見させてもらうように撮っているのかなと思いました。それに気付いたのが、編集の大川景子さんとのやりとり。ある作品を仕上げている時に、できあがったものを見させてもらったら何か違う気がして、今のようなことを伝えたんです。そうしたら、「ああわかった」と言ってすぐに編集し直してくれて、それがすごく良くて。もしかしたら最初は、お客さんが主人公の謎を読み解けるようにつないでくれたのかもしれないんですが、私はたぶん、謎は謎のままにしておきたかったんです。

高橋:だから、「見守る」感じを受け取ったのかもしれません。観る人にいろんなことを委ねていて、監督も観客も見守るようにその物語に一緒に入っていくような感じがありますよね。

杉田:撮影もその姿勢だから、自分もその時にならないと、どんなシーンになるのかわからないんです。高橋さんが好きだと言ってくれた道案内のシーンは、たどり着いた2人の目線の先に目当ての建物があるんですね。普通ならそちらを背景に記念の写真を撮るはずだけど、現場でそうはならなかった。彼女は建物が写らない道路を背景に、沙知にカメラを手渡したので、自然と沙知もそちらに向きました。そこで私も、ああ、ここに来た自分を撮ってもらうんだなって思えて。

高橋:それがリアルだなと思いました。時々ありますよね、カメラを向けるのを忘れているというか。ただその場にいた空気を収めておきたいだけなんですよね。でも、それがその場での判断だったとは。

杉田:大体のシーンがそうです。

──それは、演者さんを信頼しているからできることですよね。

杉田:一方的ですけど、信頼していますね。自分でキャスティングもするので、この方はきっと受けとめてくれると思う人を呼んでいます。それぞれの人物像や、どうして道に迷ってまであそこに来たのかは説明していなくても、くみ取ってくれてるんです。

高橋:細かいディテールは描かないけれど、杉田さんの中であるんですか?

杉田:あるんですけど、聞かれたら言うくらいです。沙知がフェリーに乗るシーンで、こちらが思っていたのとは違う理由がありそうな顔になっていると感じた時は自分から話しました。だけど、「こういう顔をしてください」というディテールの話ではなく、沙知がどういう状況にいるのか前後の物語を説明する感じです。そうすると、スッとわかってくれて、はっきりと変わりました。

詩や映画の創作は、自分を整えるために必要な行為

──杉田監督は、「その人自身の生活を追いかけるように撮る」とおっしゃっていました。高橋さんは詩をどんな風に作られていますか?

高橋:そうですね……まだ見つかっていないことを見つける感じですかね。すごくいい瞬間があったとして、だけどみんなが見過ごしてしまっていることってよくあるんですね。私も無意識で急いでいると気付かない時もあるんですけど、タイミングが合って、たまたま発見したり感動したりした時に「誰かに教えたいな」と思いながら書きます。発表するつもりもないんだけれど必要に迫られて書くというか、自分が整っていく感じがしますし、きっと誰かもそう思ってくれているんじゃないかなって。

杉田:その感覚わかります。『春原さんのうた』は2020年に撮ったのですが、自分を整えるのに必要な映画だったと思うんです。周りの大切な人達もコロナの影響で放っておいてしまうと危うい部分もあったように感じて。それが何になるかわからないけれど、今この映画を作っておくのは“きっといいこと”だと。

高橋:作っていると絡まっていた何かがほどけていきますよね。後から作品を見返すとおもしろくて、その当時の瞬間がギュッと閉じ込められていて、一点から当時の私が全部見えてくるんです。

──日記やエッセイなど長文ではなく、短い言葉でまとめることの魅力はどう思われますか?

高橋:なんやろう……やっぱり、美しいからじゃないでしょうか。日記にもその人のセンスみたいなものは表れるけれど、報告的ですよね。だけど詩は余白の部分がたくさんあって、一瞬が輝いてるというか……うまく答えられないけれど。

杉田:私は高橋さんを前にすると、どうしてもみかんの木のことを考えてしまって。みかんの木は見た瞬間の説得力があるじゃないですか。日記やエッセイと詩や短歌の違いは、そこにあるのかなって。短い言葉に説得力がある。

高橋:そうですね。みかんの木みたいに、詩も短歌もあたりまえにそこに存在していて、その一言で納得させるものがある気がします。

──お2人が初めて感動した短歌や詩を教えていただけますか?

杉田:初めて買った短歌集は穂村弘さんの『シンジケート』でした。20歳の時。私は大島弓子さんが大好きで、帯を書いていらしたんですよ。大島さん推薦の歌集なら高くても買おうと、買ったお店の様子まで全部覚えています。その中の一つの短歌が好きで、頑張って言ってみますね……「体温計くわえて窓に額つけ『ゆひら』とさわぐ雪のことかよ」。

高橋:はあー、素敵な短歌ですね。杉田さんっぽいというか。

杉田:今思い出したんですけど、今回の映画を観たいろんな方から「窓の話」をしてもらうんですね。ある方には、「杉田の映画はいつも『窓』だ」って。確かにほとんどの映画に窓が絡んでくるんですけど、よく考えたらこの短歌も「窓」ですね。無意識に、窓というものに惹かれているのかもしれない。

高橋:窓って、のぞき込むじゃないですか。自分自身や人の生活、意識をのぞき込んでいる感じがあって、それは短歌や詩、杉田さんの映画にも感じます。

杉田:スティーヴン・スピルバーグ監督の映画が好きなんですけど、彼の映画は一番大事なシーンに必ず窓やガラスが登場するんですよ。例えば『E.T.』で、エリオットとE.T.がお別れのあいさつをする時もガラス越し。ガラスを避けて回り込むこともできるのに、あえてガラス越しなんですよね。鼻息でガラスが曇っていたりして。

高橋:エリオットにとって、ガラスは必要だったんでしょうね。私が初めて読んだ詩集は、中学生の時に読んだ金子みすゞさんの童謡詩集です。めっちゃかっこいいと思ったんですよね。生まれるずっと前に作られたものなのに、感覚が今もなおさえていて。詩は難しいものだと思っていたけれど、平易な言葉で世界をひっくり返すことができるんだと感動したことを覚えています。例えば、お魚がいっぱい漁れて浜では大賑わいしているけれど、海の底では魚達が弔いをしているだろう、という詩があって。その人の視点次第で世界をいかようにも捉えられるし、詩を書いてみたいと思えたのはみすゞさんの影響が大きいです。

杉田:高橋さんの作品も何気ない日常の中で、視点が変わる気がします。高橋さんの視点で見つめると、気付いてなかったことにハッとするんですよね。

高橋:杉田さんが、登場人物の1人の時間を想像したように、何事も想像力だと思うんです。明るい人だって、落ち込むこともある。無意識な部分を昇華させてあげることができるのが、映画や詩ですよね。

杉田:作品を作っていると、自然と自分の無意識も表れるじゃないですか。それって結構恥ずかしいことなんだけれど、諦めるしかないなと思いながら作っています。

高橋:癖みたいなものですもんね。自分の机を飛び越えて、世の中に作品を出すというのは自分を晒すことなんだと私も思います。歌詞の時は、歌や声という窓を隔てて相手に届くのだけれど、詩だと丸裸な感じ。2010年に詩の展覧会をした時に親戚一同がやってきたんですよ。本当に恥ずかしくて(笑)。だから、詩集が発売されても内緒にしています。

「ここまで見守れたら十分」というタイミングで映画を終える

──『春原さんのうた』は、第32回マルセイユ国際映画祭インターナショナルコンペティション部門にて日本映画初となるグランプリのほか俳優賞、観客賞の3冠に輝くなど国境を越えて、多くの人が感動されています。それには、どのような気付きがありましたか?

杉田:前作『ひかりの歌』は、「光」をテーマにした短歌コンテストの受賞作を映画にしたものなので、作者に対するプレゼント的な気持ちで作っていました。今回は、自分や周りの人に「必要かもしれない」と思いながら作ったので、正直海外まで遠くに目を向けてなかったんですよね。だけど、今自分が必要とするものを作ったら、たまたま多くの人にとっても必要だったんだなと感じました。

高橋:人に会うことの幸せ、みたいなものがここ2年漂っているじゃないですか。だから、世界中が求めていたし、必要だったんだなと思います。

杉田:この映画を観ることで、身近な人と離れてしまった記憶を引き寄せて、会えない人との時間をどう過ごすかということを考えてくださるんですよね。だから、おもしろいくらいに世界のどこに行っても受け取る感想が同じなんです。「自分にも覚えがある」「ほっとした」「ありがとう」ってよく言われて。NYの映画祭では司会の人が話しながら泣いてしまって、それを翻訳する通訳さんもうるっとしていて、ありがたかったです。

──今回の映画にも通ずるテーマだと思うのですが、喪失から回復していく、というのは今の人々が歩いている過程なのかもしれないですね。自分では気付いていないけれど、数十年後に振り返ったらそうだと気付くのかもしれない。そんな中で、食事のシーンが印象に残りました。それは喪失から回復するためには食べることが必要だ、と認識したのですがいかがでしょうか。

杉田:無意識だった部分もありますが、どこかで人間は食べないと生きていけない、と思っているところはあります。どんな状況であれ、沙知は食べられるし水も飲めている。本能的に欲する機能が働いていれば、次の日も来るよっていうのは思っていました。生きることへの希望、みたいな言葉は一旦置いておいても、食べられているのならギリギリ大丈夫だと思ったんです。でも、指摘を受けたのは、1人のシーンだとほとんど食べていないんですね。唯一食べていたのが、どら焼きで。

高橋:それは思いました。誰かといるとお腹いっぱいでもまだ食べちゃう、みたいなことがありますけど、1人だと夕飯を食べてなかったってことありますもんね。言葉にはしないけれど、それくらいギリギリだったのかなと思いました。

──『春原さんのうた』は台詞も少なく、沙知がどういう状況に置かれているのか、何に悲しんでいるのか、全く説明がないまま見る人に解釈が委ねられています。最近の映画には、わかりやすい説明を求められることもあると思いますが、説明的でないのは意図的なのでしょうか?

杉田:自分なりには全力で説明しているんです。だけど、それが言葉ではなくて、「映している」という感じですね。

高橋:音楽も少ないですよね。暗がりの中で洗濯物を取り込んでいるシーンとか、無音の中でカーテンが風になびいていて。音を入れると感情が引っ張られてしまうんだけれど、ないことで、自分の心だけで感じて見られるんだと。それも、意図して引き算をしているんだと思っていました。

杉田:引き算というより、このスクリーンができるだけ満ちればいいな、と思って作っています。それを邪魔しないように映るものを調整するくらいですね。唯一悩んだのは、沙知がアパートから帰ってきてポストに立ち寄り、階段を上がるシーン。テストでは転居先不明の葉書を手に持ってる姿が一瞬だけ映ったんですけど、本番では映る直前のところでかばんにしまい終えちゃったんです。ただでさえポストも映していないから、なんのことかお客さんはわからないかもと思って。だけど、沙知の動きは全部本当だし、演じた荒木さんはその都度自然な状態を選んでくれています。それを信じられたし、一番大事なものは撮れたと思えたので結局1テイク目を使いました。

高橋:それ聞きたかったんです。監督はどれだけを、どんな風に決めているんだろうなと。それはきっと、これまで観られてきた映画や自身の感覚によるものなんでしょうけど、絶妙なあんばいで決められているんだなと思いました。あの、道案内をしながら歩いていくシーンの尺も、どれくらい自分の中で時間を決めているんですか?

杉田:自分の中で、ここまで見たら十分、と思えたらカットをかけます。映画はどこかで終わらなければいけないから、そのタイミングは私もよく考えるんですけど、「登場人物をここまで見守れたら大丈夫」と思えたタイミングで映画も終えるようにしています。十分お邪魔させてもらったし、見ていいのはここまで、という感じですかね。

高橋:なるほど。「見守る」っていいですね。なんか……私は、雪さんの視点で映画を見ていたのかもしれないです。ケーキを食べているシーンも、すごい引きで撮っていたじゃないですか。あれも、雪さんの視点で見ているような感じがしました。

杉田:雪が一体どんな存在なのか、彼女を映せるのだろうかと悩むこともありました。だけど、1つだけルールがあって、別れた後は二度と同じフレームで沙知と雪を映さないようにしたこと。それは、この先も二度と彼女達は会えないことがわかっていたからです。それぞれであり続けたことで、高橋さんのような解釈で彼女はスクリーンの中に映ったのかもしれないですね。

杉田協士
1977年、東京都生まれ。映画監督。2011年に長編映画『ひとつの歌』が東京国際映画祭に出品され、2012年に劇場デビュー。長編第2作『ひかりの歌』が2017年の東京国際映画祭、2018年の全州国際映画祭に出品され、2019年に劇場公開。各主要紙や映画誌「キネマ旬報」において高評価を得たことなどで口コミも広まり、全国各地での劇場公開を果たす。他、小説『河の恋人』『ひとつの歌』を発表(文芸誌「すばる」に掲載)、歌人の枡野浩一による第4歌集『歌 ロングロングショートソングロング』(雷鳥社)に写真家として参加するなど、幅広く活動をつづける
Twitter:@kyoshisugita

高橋久美子
1982年、愛媛県生まれ。詩人・作家・作詞家。チャットモンチーでの音楽活動を経て、2012年より文筆家に。詩、エッセイ、小説、絵本の執筆、翻訳、さまざまなアーティストへの歌詞提供など精力的に活動。主な著書に、詩画集『今夜凶暴だからわたし』(ちいさいミシマ社)、小説集『ぐるり』(筑摩書房)、エッセイ『旅を栖とす』(KADOKAWA)、『いっぴき』(ちくま文庫)など。近著に『その農地、私が買います』(ミシマ社)。現在、長野県上田市で詩と絵の展覧会「ヒトノユメ2021」を開催中(〜5/8)
公式HP:んふふのふ http://takahashikumiko.com
Twitter:@kumikon_drum

映画『春原さんのうた』

『春原さんのうた』
前作『ひかりの歌』が口コミなどの評判により全国各地での公開へとつながった杉田協士監督の長編第3作。歌人の東直子による第一歌集『春原さんのリコーダー』の表題歌を杉田協士監督が映画化し、撮影を飯岡幸子(『うたうひと』『ひかりの歌』『偶然と想像』)、照明を秋山恵二郎(『花束みたいな恋をした』『きみの鳥はうたえる』)、音響を黄永昌(『不気味なものの肌に触れる』『VIDEOPHOBIA』)が務める。第32回マルセイユ国際映画祭 インターナショナル・コンペティション部門にて日本映画初となるグランプリのほか俳優賞、観客賞の3冠に輝いた。ポレポレ東中野では1月8日の上映初日から3日間、計6公演とも満員御礼になるなど注目も高い。上映劇場はオフィシャルホームページで要確認
https://haruharasannouta.com

Photography Mikako Kozai(L MANAGEMENT)

author:

羽佐田瑶子

1987年生まれ。ライター、編集。映画会社、海外のカルチャーメディアを経てフリーランスに。主に映画や本、女性にまつわるインタビューやコラムを「QuickJapan」「 she is」「 BRUTUS」「 CINRA」「 キネマ旬報」などで執筆。『21世紀の女の子』など映画パンフレットの執筆にも携わる。連載「映画の中の女同士」(PINTSCOPE)など。 https://yokohasada.com Twitter:@yoko_hasada

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