藤井風という比類なき存在 その振る舞いや楽曲が醸し出す“わからない”という魅力

2020年のメジャーデビュー以来、快進撃を続ける藤井風。かつてYouTubeにカバー動画をあげていた少年が数年後に自身の楽曲をリリースし、幅広い層からの人気を獲得するまでに、そう時間はかからなかった。昨年の『第72回NHK紅白歌合戦』でも、司会者達にもサプライズで登場したことは大きな話題となった。なぜ彼の楽曲は多くの人を惹きつけるのか? その魅力を探るべく、ライターのs.h.i.に寄稿を依頼した。

歌詞に施された無数の仕掛け

藤井風は実に不思議なアーティストである。作品が高度なのは当然の前提として、音楽スタイルは表面的にはわりと普通にも思えるのだけれども、じっくり聴き込むと全然そうでないことに気付かされるし、考えるほどによくわからなくなってくる。一発で耳をつかむ印象的なメロディにあふれていて底抜けに親しみやすい一方、楽曲の展開は変則的で、鵺のようにつかみどころがない。漁師のおじさんのような服装でアリアナ・グランデ「Be Alright」をピアノで弾き語り、壁パントマイムからの指メガネでお茶目に締める公式動画を観れば、圧倒的な演奏スキルと気取らない格好よさに誰もが魅了されるだろうが、なんでこんな感じになってるの? という謎は残るし、それが解き明かされることはおそらくない。『NHK紅白歌合戦』での大活躍やニューアルバムの圧倒的なチャートアクションを見ても、この人がこれから国民的な人気を得ていくのは間違いないだろうが、そうなる明快な理由は誰にもわからないのではないかと思う。そして、個人的には、その“わからない”具合が絶妙だからこそ、ここまで人を惹きつけてやまない魅力が生まれているのだという気がする。

アリアナ・グランデ「Be Alright」のカバー

そもそも歌詞からして一筋縄ではいかない。“方言”は藤井風のパブリックイメージとして完全に定着した感があるが、実はそれが出てくる曲のほうが少ない。ファーストアルバム『HELP EVER HURT NEVER』では「何なんw」「もうええわ」「調子のっちゃって」「さよならべいべ」、セカンドアルバム『LOVE ALL SERVE ALL』では「まつり」「へでもねーよ」「燃えよ」「damn」、ともに11曲中4曲のみ。このうちシングルに採用されたのは5曲で、そこから醸し出されるエキゾチックなイメージは売り出すにあたっての良い看板になったと思われるが、この人の本領はもっと別のところにあるのだろう。まず、言葉の並べ方のうまさ。「燃えよ」における“燃えよ”と“もうええよ”の押韻(相反するニュアンスの一体化)や、「damn」サビのコール&レスポンスにおいて“あなたへ→全部”や、“青さへ→責めて”をeの音で滑らかにつなげてみせることなどは序の口。「ガーデン」のサビでは、2行目の“あなたに”が1行目を追うように前のめりに続くが、3行目の“それでも”はためらうように小節の頭から一瞬遅れており、歌詞のニュアンス展開と作編曲の構成が絶妙に歩調を合わせている。また、おのおのの曲を歌い比べてみればわかるように、歌詞の一語一語が音符に乗るペースには大きな違いがある。流麗な「まつり」とゆったりした「燃えよ」の速度差は特に極端で、この2つが同じアルバムに違和感なく収まっているのは考えてみればすごいことである。などなど、藤井風の音楽には聴き手の意識の流れに干渉する仕掛けが無数に施されているのだが、その仕込み方があまりにも巧みだからか、そうした揺さぶりが煩雑に感じられることがまるでない。本人のキャラクターもあってか理屈っぽい気配はほとんど漂っていないけれども、どちらかと言えば計算高い、策士と言っていいような音楽なのだと思う。

「燃えよ」

カバーからたどる音楽的ルーツとオリジナリティ

ではその策士がどんな策を弄しているのかというと、それがまたよくわからない。象徴的なのが「ロンリーラプソディ」で、歌がうますぎるために違和感なく聞き流せてしまうけれども、歌メロの符割りや歌詞の文節間隔は独特で、R&Bというよりは初期クイーンあたりに近い奇妙な構造になっている。藤井風自身はこの曲について、「ラプソディの意味もよく知らずにつけたタイトル。でもメロディがマイペースに、自由に、漂うように進んでいくから、このタイトルは間違いではなかったと思う。夕方や夜の街を徘徊しながら、孤独に寄り添いたいという思いで仕上げていった曲」と言っている。これを踏まえてイントロとアウトロのメロトロンを聴くと、黄昏のカーテンがゆっくり下りてくるような特有の音色は上記のイメージにぴったりだし、この楽器が強固にひもづけられたジャンルであるプログレッシヴロック(キング・クリムゾンやジェネシスなど)に通じる変則展開に説得力を与える素材としてもうってつけで、諸々のイメージや音楽文脈をつなげるにあたって絶妙のアレンジだと思える。というふうにとりあえず納得はできるのだが、それではこういう音楽的発想が具体的にどこからきているのか? と考えてみると、それがまたよくわからないのである。

藤井風がこれまで公開してきたカバー曲のレパートリーを見ると、国内外問わず、1970年代や1990〜2000年代、そして近年のポップミュージックの名曲が並んでいる。耳なじみの良さと高度な楽曲構造を兼ね備えたものばかりで、ソウルミュージックやR&B、その影響下にある日本の歌謡曲〜J-POP というふうに、ジャンル的にも明確な方向性がある。しかし、それが今の音楽性に直結するかというとどうだろう。ファーストアルバム収録曲は確かに上記レパートリーと同じ枠内にあったけれども、セカンドアルバム収録曲はそこに足跡を残しつつはるか先に向かう気配がある。「やば。」はSWV「Weak」(セカンドアルバム初回限定盤にカバー収録)、「ガーデン」の変則的なコード進行はスティーヴィー・ワンダーに通じるといった近似性はあるが、先述の「ロンリーラプソディ」におけるプログレ的発想は上記レパートリーには(直接的には)ないし、「“青春病”」の複合ルーツ的な歌メロや「へでもねーよ(LASA edit)」の浮遊感あふれるコード進行は明らかにこの人ならではのものである。つまり、藤井風の音楽性はポップミュージックの王道に立脚するものなのだが、そこから外れる引き出しも無数にあり、それらの複雑な兼ね合いから独自の妙味が生まれている。武者修行的にカバーを繰り返しそこから学び続けるやり方と、シンガーソングライターとしては古典的な活動形態、そしてそこにとどまらず旺盛に持ち分を広げていこうという姿勢、インターネット普及後だからこそ可能になった広く柔軟な情報収集とが、両輪として機能し、藤井風という規格外のブラックボックスを通して特殊な融合を成し遂げているのではないだろうか。こうした在り方は、ある意味では「歌ってみた」「弾いてみた」の最も強力な例とも言えるし、その類型から大きくはみ出るものでもある。わかりにくい奥行きがよく知られた領域と密接につながっているからこそ、その双方が活かされ強い訴求力となる。藤井風のつかみどころのない魅力の核心は、こうしたところにこそあるように思われる。

「まつり」

楽曲に宿る、相反する要素の実態

このような在り方は、言葉の使い方にもよく表れている。藤井風の歌詞では、「まつり」の“生まれゆくもの死にゆくもの 全てが同時の出来事”というくだりに象徴されるように、ほぼすべての曲において、相反するニュアンスの葛藤が描かれている。生と死、出会いと別れ、獲得と喪失、煩悩と解脱。その双方に向き合った上で素知らぬふりをする、粋であろうとする姿こそが通底するテーマだとも言えるし、それが板について実(じつ)となる様子や、そこからにじみ出る明るい諦観、浮浪雲のように飄々とした佇まいが大きな魅力になっている。こうしたことを最もよく表しているのが「やば。」だろう。“何度も何度も墓まで行って 何度も何度もその手合わして”と歌った直後に“やば、やば、やば、やば。 傷つけないでよ 裏切らないでよ”と続けるカジュアルな言い回し、それでいて軽薄な印象を一切与えない歌唱と曲調(これはR&Bならではのラグジュアリーな雰囲気の表現によるところも大きい)は、この人の音楽が醸し出す軽やかなシリアスさを美しく示している。ドナ・サマーのディスコ名曲「Hot Stuff」(セカンドアルバム初回限定盤にカバー収録)で、定番のアゲアゲスタイルをなぞるのではなく、ザ・ウィークエンドあたりに通じる気だるく仄暗いニュアンスを表現し、歌詞の刹那的な側面に奥深い陰影を加えてみせるさまをみると、圧倒的な“陽”の人であるようでしっかり陰も持っていることに気付かされるし、そこに嫌味なく寄り添う気配りも備えていることがよくわかる。気の向くまま風に乗って揺れているようでいて実は計算高くもあり、そしてその境目が見えない。おそらくその双方を無理なく持ち合わせているからこそつなぎ目がなくなっているのだろうし、そもそもつなぎ目という意識もないくらい一体化しているのかもしれない。複雑なニュアンスを統合し、それを気にさせることなくすんなりのみ込ませてしまう自然体のトリックスター。こうした腹の底が見えないところがすてきな謎となり人を惹きつけるのだろうし、なんとなく抵抗を感じる人からしたら信用できないポイントになってもいるのではないかと思う。本当に不思議なアーティストである。

「何なんw」

多くの人をとりこにする理屈抜きの魅力

藤井風をわかりやすく表面的に論評するなら、方言とネットスラングからなる「何なんw」という曲でデビューしたことに象徴されるローカル性とグローバル性の混在、土着性とインターネット普及後の広がりの両立とか、J-R&B(世界からみればローカルなもの)を起点としつつ汎世界的な広がりをみせる音楽性がそうした様子にきれいに対応する、みたいなタームがひねり出しやすく、実際そういう特性が国内外の人々に訴求している面もあると思われる(CDの歌詞カードには英語対訳も併載され、その訳詞も緻密に押韻が意識されるなどよく作り込まれており、国外展開を考慮しているのは明らかである)。しかし、この人の奥深く入り組んだ持ち味はそんな図式にとどまるものではないし、これは聴く側からしても本質的に重要な部分ではないだろう。ハイカロリーなのにスルスルのみ込める歌声は最高級の牡蠣のようで、どれだけ繰り返し聴いてももたれないし、受け手と程よい距離感を保ちながら潤いを与えてくれる節度が好ましい。結局のところは、それがあるからこそ何も考えずに楽しめてしまうし、多くの人々が理屈抜きに惹き込まれ、知らず知らずのうちに複雑なニュアンス表現の妙味を受け取っているのではないだろうか。『LOVE ALL SERVE ALL』はそうした在り方が前面に出てきたアルバムで、この傾向はこれからも良い具合に増していくのではないかと思われる。今後の展開もいっそう楽しみになる、本当に素晴らしいアーティストである。

author:

s.h.i.

1982年生。読みはエスエイチアイ。 Twitter:@meshupecialshi1 ブログ:https://closedeyevisuals.hatenablog.com

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