DJ KRUSHソロ活動30周年 たどってきた道と記憶―世界的DJとしてさらに飛躍したメジャー時代―中編

DJ KRUSHがソロ活動30周年を2022年に迎えた。ジャパニーズヒップホップの夜明けから東京アンダーグラウンドで活躍し、そこから世界へ。DJ界の日本代表で、世界から見たらDJ界の東洋の魔術師。今やコアなDJ KRUSHヘッズは世界中に存在する。

そのDJ KRUSHの今を記録しておきたい。中編では、1990年代半ばから2000年半ばにかけて、メジャーレーベルで活動をしていた時期について。

前編はこちら

型にはまることなく、独自の世界を創り上げる

――2001年にリリースされた6thアルバム『漸 -ZEN-』は、ヒップホップの枠を抜け出して、新しいKRUSHのサウンドを世界へ届けたと感じる作品でした。

2001年にリリースされたアルバム『漸 -ZEN-』

DJ KRUSH:特に「Song 1」なんかは、そうかもしれないね。それまでいろいろなタイプのアルバムを作っていた中で、たぶんあの頃は、グッと下げて、なんかザラザラしていない感じに作りたいなという気持ちだったんだろうね。それでZAP MAMA(ザップ・ママ)を入れたり、THE ROOTS(ザ・ルーツ)もまた一緒にやっていたり、怪しい曲も入っているから全体的な質感が独特なんだ。

――『漸 -ZEN-』がリリースされる前には近藤等則さんと制作した作品『記憶 〜KI-OKU〜』での経験が、何かしら影響しているのかなと感じました。

DJ KRUSH:自分ではその時は気が付いていなかったけど、近藤さんと一緒に作ってみて発見も多かったし、世界観を築き上げる中で近藤さんとやったことが気持ち的には入っていたかもしれないね。

――近藤等則さんとは何作かセッションされていますが、KRUSHさんにとって近藤さんはどのような存在ですか? 

DJ KRUSH:近藤さんは凝り固まっていないというか、すごく自由にやっていらした。影響を大きく受けた音楽家の1人だよ。自分にはもう1人影響を受けた人がいて、それがビル・ラズウェル。彼もやっぱり自由にいろいろなことをやってきている。

俺はヒップホップ上がりのDJだけど、形にハマったことが好きじゃなくて、そういうところは近藤さんやビル・ラズウェルと少し似ているかな。形にとらわれずに何ができるかっていうおもしろみを求めるヤバい人達っているじゃないですか。そういう部分では近藤さんとは共感できたのかなと思う。

――おのおののジャンルの中では異端児と言いますか、そういった人達と出会い、化学反応を起こしてしまったというか。

DJ KRUSH:ツボが一緒だったし、近藤さんから得るものは大きかったから、『記憶 〜KI-OKU〜』を一緒に作ったことは自分にとって大きな出来事だったかな。あの作品は近藤さんの日本のスタジオで作ったから、俺は近藤さんの家に泊まり込んでいたし、アムステルダムにもスタジオを持っていたので、そこに招待されて行ったこともある。それで覚えているのは、アムステルダムの駅の隣にあるすごく広いスタジオで、窓を開けたままで近藤さんがトランペット吹いていたこと。そのトランペットの音が駅の構内中にブワッと響くんだ。もうリバーブはいらないみたいな。あの響きが未だに忘れられないし、「プレゼントがあるから」ってナイフをくれて、一緒にチーズを買いに行ってそのナイフで切って食べたりもした。近藤さんとの制作は、毎日毎日違うトラックになっていくからすごくおもしろかったよ。

1996年に近藤等則×DJ KRUSH名義でリリースされた『記憶 〜KI-OKU〜』

和を取り入れ、日本人である自分にしかできないサウンドを生む

――2001~2004年までに、6th『漸 -ZEN-』、7th『深層~The Message At The Depth~』、8th『寂 ~jaku~』とリリースされていますが、どれも違った世界感で音色も異なると感じました。

DJ KRUSH:『漸 -ZEN-』の後の『深層』では、まったく逆にいったんだよね。ビリビリ具合も強かったし、『深層』は当時、賛否両論だった。制作方法でも、『漸 -ZEN-』までは昔ながらのサンプラーとシーケンサーで作っていたんだけど、『深層』からはコンピューターを使い始めたんだよ。

――私は『深層』が好きです。ちょうどあの頃はIDM(Inteligent Digital Music)やエレクトロニカが出始めてきた頃で、実験的な感じもしました。そして、次にリリースされた『寂 ~jaku~』では、和太鼓、津軽三味線、尺八などの和楽器を取り入れて、また異なる展開をされていましたが、日本文化を取り入れたことは自然な流れだったのですか?

DJ KRUSH:3rd『MEISO(迷走)』に収録されているC.L.スムースとの曲(「Only The Strong Survive」)で、すでに尺八を使っていたんだけど、あの時は和に対する決着が自分の中でついていなくて、それをずっと引きずっていたんだ。だけど、DJとして海外ツアーをやっていくうちにどんどん自分の国を客観的に見れるようになって、年齢的にも自分に余裕ができたのか、ようやく自分の国の楽器と向き合って作ってみるのもいいかなと思えるようになった。

昔は自国のものを使うことが、いかにもって感じで小っ恥ずかしかったから。嫌だなって。だけどきちんと向き合ってみたら、尺八の間だったり、三味線や和太鼓の荒々しさや静かな感じだったりと、その素晴らしさに気が付いてきて、それから俺達、日本人にしかできない空気感なんだから、自信を持ってやればいいんだと思えるようになった。

実際には、尺八を吹く人はいろんなタイプがいる。その中でも自分はあえてチャレンジしてみたくて、森田柊山さんのように先生と呼ばれて、お弟子さんもたくさんいるような人を選んだんだよね。

『MEISO(迷走)』収録曲「Only The Strong Survive」

――森田柊山さんの反応はいかがでしたか?

DJ KRUSH:森田先生とは、ヨーロッパツアーにも一緒に行ったんですよ。森田先生のお客さまは、普段は椅子に座って演奏を聴いているから、フェスだのクラブだので、とにかく驚きの連続だったと思うんですけど、森田先生はすごく前向きに考えていて楽しんでくれた。紋付袴を着てヨーロッパのステージに立たれたんですけど、こっちのグルーヴにちゃんと乗っかってくれて、俺はDJで先生の後ろにいたけど、目の前にいた先生の姿をすごく覚えている。

――和楽器の音には独特のグルーヴやリズムがありますが、KRUSHさんの音にハマった理由はなんだと思いますか?

DJ KRUSH:曲によってだけど、自分自身が間を大事にするビート作りをかなり意識してきたところがあるし、人には俺が作る音は「尺八のようなロングフレーズが合う」と、よく言われてきた。曲を作る時にも、尺八の音にどう泳いでもらうかを想像しながらビートを作っていたんだけど、ロングフレーズの尺八の音をどう曲に生かすか。尺八の場合は引き算になるから、ロングトーンで吹いて空気感が広がっている後ろで自分がバタバタやっててもダメだろうし、どう寄り添っていくのかが重要だった。それを考えながら曲を作るのもすごく楽しかったし、日本を感じることができた。

音を取り込んで自分色に編集。そしてPMC-20SLから吐き出す

――これまでDJとして国内外の多くの場所でプレイされてきましたが、機材がどんどん進化していく中で、DJのスキルアップはどのようにしていきましたか? 

DJ KRUSH:アナログからセラートへ移ったきっかけが、海外でプレイする際にレコードが届かなかったことなんだ。当時は、レコード100枚入りのクレートを2つとか持っていっていたんだけど、アメリカのテロがあって以来、荷物制限がすごく厳しくなっていたんだ。さらにお金もかかるようになっていたし、さらにレコードが届かなかったりとか、ドイツでは一緒に行ったDJのレコードが盗まれたりもした。それで、そろそろ替え時かなと。セラートに移行してからは、ずっとそれだけでツアーを回っているよ。

――セラートに移行した時、それまでにやってきたプレイがやりにくいとか、出音が違うなどといったことはなかったですか? 

DJ KRUSH:30年近く「ベスタックス」のPMC-20SLを使っていて、そこから音を出しているんだけど、正直言うと一番最初は出音に関してはしっくりこなかったよ。だから出音を取るのか、身軽さを取るのかのどっちかだったけど、海外にはレコードを持って行きづらくなっていたし、そこは目をつぶったのかもしれない。

それでデジタルに移行してからは、音を一度DAWソフトに取り入れて、自分でリマスターし直して音を補修してセットを組むようになっていったんだけど、「このブレイクのところにギャング・スターの有名なネタをかぶせたらおもしろくないかな?」 とか、どんどんアイデアが湧き出てきてもっとおもしろくなってきた。それってアナログでは絶対にできないことで、しかも自分の曲もどんどんエディットして複雑にもできた。それからはそんなことに夢中になってしまって、出音に関しては二の次だった時期もあったけど、今はセラートも進化して音もだんだんと良くなっているから、ようやく今使っている機材セットに落ち着いてきたのかな。

――KRUSHさんのDJプレイを聴いていて、昔の音が新しくも聴こえるのは、機材の進化とともにプレイの仕方を変えていった結果なんですね。

DJ KRUSH:積み重ねて積み重ねてって。なぜそうしてきたかっていうのは、人の曲を使えども90分というみんなに聴かせられる時間を頂いている中で、どれだけの曲を使って自分の世界を構築し、最後に着陸させるかっていうことを命懸けでやってきたから。そこに関しては手を抜かないし、おもしろいアイデアがあればどんどん使うし、さらにジャンルなんかは一切関係ない。

自分の音を作り上げるにあたっても、古い音と新しい音をデジタルで混ぜることができたっていうのは、すごく大きいことだった。DAWに入れて音をそろえる作業をして、帳尻を合わせて20SLのアナログを通して吐き出すことで、独特の音になっているんだと思う。

――「ベスタックス」のPMC-20SLを使い始めたのはいつ頃からですか? 

DJ KRUSH:1990年代にMo’ Waxでツアーをやった時はすでに使ってたよ。俺が使っているのを見て、ジェームス(・ラヴェル)が同じものを買ったんだから。それで、「KRUSHみたいに使いこなせない!」って騒いでいた(笑)。それと当時20SLを使っていた頃は、DMCの初期の頃で、回りのDJはほとんど小さいミキサーを使うようになったんだけど、俺は逆にデカいほうにいったの。自分はバトル系DJになるよりも、いかにDJセットで世界観を出せるかってことを考えていたから。それには20SLが自分にはベストだったんだと思う。エフェクターも付いていて、サンプリングも取れるし、こすり系であれを使っていた人は他にいなかった。自分だけの音を出したかったから、曲作りにも反映されていったし、俺にとっては正解だったよ。

(後編に続く)

DJ KRUSH
1962年、東京生まれ。DJ/サウンドクリエイター。1980年代後半よりDJをスタート。1987年にKRUSH POSSEを結成。1992年に解散後、ソロに転向。1994年1stアルバム『KRUSH』をリリース。1998年には、DJ HIDE、DJ SAKを率い、流-RYU-を結成し、21世紀に向けて発足したJAG PROJECTに参加。6thアルバム『漸-ZEN-』は、インディーズの「グラミー賞」ともいわれるアメリカのAFIMアワードにおいてベスト エレクトロニカ アルバム 2001最優秀賞を受賞。プロデューサー、リミキサー、DJとして日本を拠点に国際的な活動を展開しながら、映画、ドラマ、CM音楽制作などの分野でも幅広く活躍する。DJプレイにおいては大型フェスからクラブツアーまで、世界各国にてこれまで200以上もの公演に出演。
http://www.sus81.jp/djkrush
Instagram:@djkrushofficial 

DJ KRUSH『道 -STORY- 』
(Es・U・Es Corporation)
DJ KRUSHのソロ活動30周年となる2022年、「STORY/道」をコンセプトに国内外のアーティストを招いて音を紡ぐ作品をリリース。そのシリーズ第1弾となる12インチには、ralph、JUMADIBA、志人がラップで共演

Photography Shiori Ikeno

author:

Kana Yoshioka

フリーランスエディター/ライター。1990年代前半ニューヨークへの遊学を経て、帰国後クラブカルチャー系の雑誌編集者となる。2003年~2015年までは、ストリートカルチャー誌『warp』マガジンの編集者として活動。現在はストリート、クラブカルチャーを中心に、音楽、アート、ファッションの分野でさまざまなメディアにて、ライター/エディターとして活動中。

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