連載「クリエイターが語る写真集とアートブックの世界」Vol.9 作家・島口大樹 アートブックにおける言葉の存在感

常に新鮮な創造性を発揮するクリエイターにとって、写真集やアートブックを読むことは着想を得るきっかけになるだろう。この連載ではさまざまな領域で活躍するクリエイター達に、自らのクリエイションに影響を与えた写真集や注目のアートブック等の書籍を紹介してもらう。

第9回は、2021年に群像新人文学賞を受賞した1998年生まれの作家、島口大樹。圧倒的な文章力で物語を紡ぐ“言葉の人”が選ぶ、アートブック3冊とは?

『メメント・モリ』
藤原新也

写真の上に文章が載る大胆なデザイン

1983年初版発行のロングセラーで、今さら僕が紹介するべきか迷いました。この本は、写真だけでなく文章が特徴的。一般的な言語感覚でないというか、写真家の言葉だなと思います。写真家は言葉を介さずに、写真というある意味1つの答えが見えているというのがまずあって、そこから言葉が追いかけるかたちになっている。そのため、どうしても感覚が混ざったり、ポエティックになったり、弾丸として飛んでくるような力強さもあって、本当におもしろい。

写真がいいのはもちろん、言葉とともに表現されたテクストを読んだ時に僕は非常に強い衝撃をくらってしまい、胸焼けをする思いでした。僕が写真を撮ったり、文章を書いたりといった創作活動を始めるきっかけになった1冊です。今の時代、情報過多で制度として健康や長生きが叫ばれます。「生きる」というより「死を回避する」ための社会のシステムが確立しているくらい。でもこの本には、人の死体などが多く掲載されていて、検閲が内面化されている新しい表現者が読むと何か感じるものがあると思います。僕は、生と死について一切の揺らぎのない、突き抜けるような言葉と写真に影響を受けたと思っているので、この重みを、若い方にも受け取ってほしいなと思っています。

写真家の写真集で、大きな書体の文字を写真に載せているのも珍しい。言葉の選び方、助詞の選び方1つ取ってもユニークで、ジャーナリズムの言葉とも、小説を書いている人との言葉とも違う感覚の文章に引き込まれます。

『計画と偶然』
山崎博

カメラに従事した写真家

この写真集は、僕の本のカバーを担当してくださっている写真家の馬込将充さんに教えてもらいました。お話している時に「どういう時にシャッターを切るか」「書いている時はどういう状態か」という話になって、多分2人とも自分ではあまりわかっていなかった。だから、作品を作る時は無意識に自分を持っていくしかない、みたいな話になりました。無意識を意識するというのはおそらく禅の言葉ですが、そんな話をしている時に馬込さんが教えてくれたのが、この1冊です。

山崎さんは、長時間露光をして「カメラに写真を撮らせた」人。「写真はコンセプトに従属せず、コンセプトは写真に奉仕する、作家はカメラに従事しなければいけない」という考え方をしています。一般的なスナップショットというのは、「決定的瞬間」をフィルムで捉えるという認識が多いと思いますが、それとは逆。水の流れを撮ることに対しても、「決定的瞬間などという見る側のヒエラルキーは存在しない」といった言い方をしています。要は、決定的瞬間は誰が決めるのか? に基づいて写真を撮っている人で、「決定的瞬間を決定的瞬間と定めるあなたは何者なのか」という態度がすごくいいなと僕は思っています。

無意識を意識すること、作家が写真に対して奉仕するということ。これらを語り手が必要な小説で表現するのは難しいことですが、何か通じる作品を生み出すことができるのではないかと、考え続けているところです。

長時間露光をすることによって、人間が見ることのできない光の軌跡を写す。これを彼は、計画と偶然と呼んでいます。カメラには機能があるのだから、それに従事しなくちゃいけないというスタンスで、人間が決めるのではなくあくまでカメラに従事することで、写真の可能性を切り開いてきた人だと思います。

『正体不明』
赤瀬川原平

路上観察をまとめた写真集

赤瀬川さんは、前衛画家であり、尾辻克彦というペンネームで芥川賞を受賞している作家でもあります。この写真集は、かつては役に立っていてもはや意味をもたないもの、あるいはそもそも作った意図がわからないものなど無用の長物がまるで芸術のように都市に存在している景色を集めた写真集です。赤瀬川さんは、当時、読売ジャイアンツの助っ人外国人にちなんで、その存在をトマソンと命名して、路上観察を続けていました。

「読む写真集」とあるように、すべての写真にキャプションがついているのですが、それが徹底的にふざけている。あるいは、徹底的にふざけている自分を俯瞰しています。もともと前衛画家なので、いわゆる美術作品のアンチテーゼとしていろいろな活動をしていて、路上観察もその1つ。

まず、写真家の目線でなく観察者目線の写真が並んでいるのがおもしろい。日常にあふれているものなのに、そういう目線で見ていなかったということに気づかされます。2冊目の山崎さんの写真集にもつながりますが、トマソンには作為性がありません。作り手が存在せず、観察者に観察されることで作品になる。都市の無意識が生み出したもの。そこに彼が1つの美学を見出して、観察者目線の写真とキャプションで紹介しています。

添えられるキャプションはずっとふざけているのに、急に胸に刺さる言葉があります。この右ページの写真にある「僕が水道の蛇口だった頃、お父さんは井戸のポンプだった。東京」という表現も好きです。

「ヴィジュアルやデザインだけでなく、芸術作品における言葉の用い方、存在意義を探ること」

今回、アートブックを紹介するにあたって、僕は作家として呼んでいただいているので、テクストとの関わりについて話ができるものを選びました。選んだ3冊は、どれも写真集。「メメント・モリ」と「計画と偶然」は写真家による写真作品で、「正体不明」は単に写真なので、写真の方向性は全く異なりますが、恣意性がないという点は通底しています。

さらに、写真と文字のバランスはそれぞれちがいますが、どれも言葉が重要なファクターとなっているアートブックだと思います。美術作品と言葉の関係でいうと「テクストが必要な美術は美術ではない」と考える方もありますが、最後に紹介した赤瀬川さんは「写真というのは『ここにあるものを写して他に見せる』もの。写真の基本は報道だから、最低限の言葉の補助が必要だと思う。写真に言葉がないとそれを芸術として見ないといけないような義理が生じやすい」といった表現をしています。

僕自身は、言葉にして決定づけることや名前をつけることはある意味、暴力的な行為であると考えている節があります。言葉をそれほど信用していないというか、誰かに押しつける言葉遣いを望みません。でも、赤瀬川さんは言葉が必要だという言い方をしている。確かに路上観察においては、都市的な無意識の写真を見つけるだけでなく、そこに丁寧に丁寧に考えた言葉を添えることによって、その“わからなさ”を楽しめるようになります。写真の内容を解析したり究明したりする意味ではなく、わからなさを楽しむために言葉がある。

そう考えると、定義づけや暴力的ではない言葉のあり方が見えてきて、写真と言葉の両方があることで、1つの作品として写真をより深くまで味わうツールになることがわかります。僕はこの3冊によって、自分の小説における言葉のあり方について考えさせられました。ヴィジュアルやデザインだけでなく、芸術作品における言葉の用い方、存在意義を探ることができるのも、アートブックの楽しみ方のひとつになるかもしれません。

島口大樹
1998年埼玉県生まれ。横浜国立大学経営学部卒業。2021年、『鳥がぼくらは祈り、』で第64回群像新人文学賞を受賞しデビュー。同作が第43回野間文芸新人賞候補となる。2022年、第2作『オン・ザ・プラネット』が第166回芥川賞候補となる。今最も注目される新人作家の1人。新刊『遠い指先が触れて』が販売中。

Photography Kentaro Oshio
Text Akiko Yamamoto
Edit Kumpei Kuwamoto(Mo-Green)

author:

mo-green

編集力・デザイン思考をベースに、さまざまなメディアのクリエイティブディレクションを通じて「世界中の伝えたいを伝える」クリエイティブカンパニー。 mo-green Instagram

この記事を共有