毛利悠子が語る、コロナ禍を経たサウンド/アートの現在 -後編- 東アジアへの眼差しと「現場」と向き合うこと

Akio Nagasawa Galleryで「モレモレ東京」展(12月24日まで)、Yutaka Kikutake Galleryで「Neue Fruchtige Tanzmusik」展(12月3日まで)と、約2年ぶりとなる都内での個展がスタートした美術家・毛利悠子。これまで音あるいは音楽と関連するインスタレーションを数多く制作してきた毛利だが、多種類のフルーツに電極を挿して常に変化するサウンドを生み出す《Decomposition》シリーズの最新作を展示した「Neue Fruchtige Tanzmusik」展では、自身初となるレコード作品『Neue Fruchtige Tanzmusik (vinyl)』も発表した。

そこで今回、音/音楽を切り口に毛利の活動に迫るインタビューを実施。前編ではコロナ禍を経た近況から《Decomposition》の解説、可聴域に限定されない「動き」への着目、さらにアートにおける政治性の捉え方まで語っていただいた。後編では、彼女の活動におけるキーワードである「エラー」「インプロヴィゼーション」「フィードバック」をはじめ、音楽への憧れやパンク精神、パフォーマーとしての側面、そして今後の展望を伺った。

毛利悠子
美術家。コンポジション(構築)へのアプローチではなく、世界中で見つけた日用品やジャンクをオブジェとして再構成し光や温度といった環境の諸条件によって変化してゆく「事象」にフォーカスするインスタレーションやスカルプチャーを制作。近年の個展に「Parade(a Drip, a Drop, the End of the Tale)」(ジャパンハウス、サンパウロ、2021)、「Voluta」(カムデン・アーツ・センター、ロンドン、2018)、「毛利悠子:ただし抵抗はあるものとする」(十和田市現代美術館、2018)の他、第14回リヨン・ビエンナーレ(2017)、第34回サンパウロ・ビエンナーレ(2021)、第23回シドニー・ビエンナーレ(2022)など国内外の展覧会に参加。2017年に第67回芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞した。12月3日までYutaka Kikutake Galleryで「Neue Fruchtige Tanzmusik」、12月24日までAkio Nagasawa Galleryで「モレモレ東京」をそれぞれ開催中。
https://mohrizm.net/ja/

「大きな意味では音響も彫刻に含まれる」

——海外で多数の展覧会に参加するにあたって、初めて会う人にご自身の活動について説明する場面も多かったと思います。以前は「サウンド・アーティスト」で通していると仰っていましたが、今はどのような言葉でご自身の活動を説明しているのでしょうか?

毛利悠子(以下、毛利):海外ではさしあたって「スカルプター(彫刻家)」と説明するようにしています。彫刻といっても木材や石を素材にした造形作品だけではなくて、「キネティック・スカルプチャー(動く彫刻)」という言い方があるように、大きな意味では音響も彫刻に含まれると考えているんです。なので、音響やレディメイド、キネティックな要素などを総合的に捉えて作品制作を行っていると説明しています。反対に「サウンド・アート」「サウンド・アーティスト」という言葉を使ってしまうと、音だけを素材にしていると誤解されてしまうし。

——日本と海外ではご自身の活動を説明した際のリアクションに違いを感じますか?

毛利:海外の方が「スカルプチャー(彫刻)」という言葉がもっと自然にマルチな素材を意味している感覚はあります。例えば「サウンド・スカルプチャー(音響彫刻)」と言うと、日本ではサウンド・アートの一種と捉えられることが多いですが、海外だといろいろな素材のスカルプチャーとオーバーラップして繋がっている。特定の素材に特化せず、サウンドも映像も粘土も使って動きのある作品を制作するような人が、ここ10年ぐらいでものすごく増えていて、「スカルプチャー」という言葉で表される領域は日本における「彫刻」よりも広い気がします。

——なるほど。確かに毛利さんの作品は音以外のさまざまな素材を用いていますが、一方で、音や音楽と何かしら関連する作品であるというところも非常に重要な側面だとは思います。

毛利:自分の作品について深く説明していくと、音/音楽という要素からとても大きなインスピレーションを受けているということは確実に言えます。けれど最初の説明ではあまりそこだけを見てもらわない方がいいのかなと。それは昔、「メディア・アート」という括られ方で苦労したからかもしれない。私が学生の頃にはメディア・アートという呼称が氾濫していたんです。「メディア(例えばコンピュータ)を使ってメディア(コンピュータのオブジェクト性)を問う」──意味わかりますか?──みたいなことが当時は先鋭的なテーマだったようなのですが、みんなそんな上手にフィードバックできませんから、結果的に、コンピュータを使っていたらどんな表現でもメディア・アートという分野に入れられてしまうほど大ざっぱな括りになりました。もちろん作品としては未熟でしたが、自分としてはもっと大きな意味でアートな作品をつくっているつもりなんだけどな……と思って、ゼミの先生だった三上晴子さんと議論したり。内容ではなく媒体によってそのジャンルに押し込められる経験に苦しんだトラウマがあるのかもしれません。

エラー、インプロヴィゼーション、フィードバック

——毛利さんは以前、ご自身の活動について「エラー」「インプロヴィゼーション」「フィードバック」の3つをキーワードとして挙げていました。どれも「動き」と結びつく要素でもありますが、コロナ禍を経て、これらのキーワードの捉え方に変化はありましたか?

毛利:今はもう少しワイドに捉えている気がします。コロナ禍以降しばらく、琵琶湖北部にある山小屋で毎日焚き火をするような原始的な暮らしをしていたんです。それで、展覧会だけのために作品を作り続けるのは本末転倒ではないか、湖のまわりを歩いていて心を動かされる場所があったらそこで作品を作ってもいいよな、なんて思ったことがあって。誰かが10年後とかにその場所を訪れて「ああ、こんな作品があったのか」と発見するのもオツじゃないですか。「エラー」「インプロヴィゼーション」「フィードバック」のキーワードでテンポラリーな作品を作ったとしても、観る人はもっと自由に、いつでも観られるということも考えたいなと。

——例えばエリック・ドルフィーは「音楽は聴き終えると空中に消えてしまう。それは二度と捕まえることができない」という名言を残しましたが、「動き」もまたその場で体験しないと変化し消え去ってしまいます。10年後に発見されるためには作品を何かしらの形で固定する必要が出てきますよね。毛利さんとしては、作品を変化するがままに任せることと、変化を止めることである種の普遍的なものとして残すことだと、どちらへの思いが強いのでしょうか?

毛利:壊れてなくなってしまってもいいと思う作品もあれば、残したいものもあるんです。今回レコード作品を作ることにしたのも、《モレモレ東京》を写真で展示することにしたのも、そうした「残したい」という考えがあったからかもしれません。でもレコードは実際には永久に普遍的なわけではなくて、盤が摩滅することで音もだんだん変化していく。だからこそ残す手段としておもしろいと思ったところもあります。どちらにしても、作品を残したいという気持ちは最近になって強くなった気がします。昔は、その場で動いたら壊れてしまってもいいし、電池が切れたらお終いだなんて考えていましたけど、今は美術としてのレスポンシビリティを長いスパンで考えたいな、と。そう考えるとレコードだってまだまだ歴史が浅くて、100年は残ったとしても、1000年後に残っているかどうかはまったくわからない。この間、来年開催される光州ビエンナーレの視察で韓国に行った際、博物館で8世紀前半(日本でいう奈良時代)の土器を見たんです。あたかも昨日埋めたばかりのようなたたずまいで、「きれいだねえ」って感激したんですけど、ああいうふうに一度忘れ去られたものが時代を経て突然再出現するのもいいですよね。私も石やセラミックでレコードを作った方がいいかな(笑)。

毛利悠子が考える「即興性」、あるいは音楽への憧れ

——先ほどのキーワードのうち「インプロヴィゼーション」についてもう少しお伺いしたいのですが、コロナ禍を経て、計画性や事前の準備、管理などがより一層重視される風潮も顕在化してきました。そうした中、作品を制作する上で即興的な要素について今はどのように捉えていますか?

毛利:もしかするとご質問の答えにはなっていないかもしれませんが、最近改めて即興性について考えた時に思ったのが、勢いに任せて表現することより、その場で感じたことと率直に向き合うということでした。

光州に視察に行って、占領時に日本がした最低な歴史から目をそらさずにしっかりとこの目で見ようと思い、向こうの大学の先生との対話もセッティングしてもらいました。で、ビエンナーレで私が作品を展示する会場は通常のパヴィリオンではなく、日本占領時から残る建物でやるという、非常にチャレンジングな展開になったんです。会場を視察する中で改めて感じたのは、日本が朝鮮半島やアジア諸国を侵略した歴史と、私が今この場所で何かを作る時に見えているものとは二重写しに見ることができるし、それを自分なりに解釈して作品化することに誠実でいたい、ということでした。光州という街は、日本の占領だけでなく、民主化運動の盛り上がりとその弾圧というまた別の悲劇的な過去を持っています。そういった重層的な歴史と、会場を訪問した際に音や光に心を動かされたということとが矛盾せず、自分がその場所で感じていることに対しての正直さを生っぽいまま組み立てて作品にしたいと思ったんです。

——例えばクリスチャン・マークレーは、即興する上で最も大事にしていることは「他人とのコラボレーション」だと仰っていましたが、今のお話を伺っていると、毛利さんにとっては「現地と向き合うこと」が鍵になるのかと思いました。

毛利:現地というか、現場性は重視しています。あとはモノです。マークレーはミュージシャンでもあるので即興を演奏の延長上で捉えているから、人間と人間の関係性を考えるのだと思います。もちろんそれも即興で生まれる関係性の大きな要素ですが、私はマークレーとは異なる捉え方をしていて、楽器や会場、空気感、前後の状況なども含めた中で即興を捉えるのがおもしろいと思っているんです。例えば、ごはんを食べてからライヴ会場に行くのか空腹のまま行くのか、その日のコンディションによって音楽の聴こえ方が大きく変わることはあるし、狭い会場と広い会場ではアプローチが即興的に変わっていく。人間だけではないさまざまなモノが現場で関わり合っていて、その間合いをどう取るのかが即興ということなのかもしれない。極端な言い方をすると、私は即興というのを手ぶらで現場に行って何かすることだと考えているフシがあります(笑)。

——現場性への興味はなぜ芽生えたのでしょうか?

毛利:あらかじめ作っておいた作品を展示するだけではなくて、現場でどんどん表現していく、そうした現場性への興味は音楽の速さへの憧れから来ているところがあるかな。美術に較べて音楽はものすごく回転スピードが速くて、フレッシュなものをサッと固めて時代性やたったいま自分が感じていることを取り込んでいける表現だと感じていて。デモテープがそのままレコード作品として発表されたりするノリで、ラフでもいいから美術の世界でもそんな表現をしていきたいと思っているんです。

オフサイトとフルクサスの「パンク精神」

——「人間だけではないさまざまなモノが現場で関わり合っている」とのことですが、音楽を演奏内容だけでなく演奏される空間との関わりも含めて捉えるという意味では、代々木オフサイト(2000~2005)における「弱音系即興」や、Sachiko Mさんの展示「I’m here」なども、まさに空間ありきの音の表現だったと思います。そうした試みとの出会いも毛利さんの活動に影響を及ぼしていますか?

毛利:大きな影響を受けたと思います。オフサイトという現場はアートの文脈から見てもとても新鮮に感じました。今でこそコンテンポラリー・アートが日本にも定着した感がありますが、それはごく最近の話で、私が制作を始めたばかりの頃はまだ浸透していなくて。なんというか、少し土臭いイメージすらありました。強いて言えば村上隆さんが1人で気を吐いていた感じだったけど、それも個人的にはあまりピンと来なかった。美術館よりもライヴハウスに行く方がおもしろかったんです。音楽の現場で行われているよくわからないものの方がアートフォームとして非常に刺激的だったというか。そうした時代に伊東篤宏さんと藤本ゆかりさんが代々木にオフサイトを立ち上げて。あと、当時は大竹伸朗さんの存在が大きかったです。1999年に発表された自動演奏・遠隔操作バンドの《ダブ平&ニューシャネル》を世田谷美術館で観た時の記憶は今も鮮明で。大竹さんは1980年前後にJUKE/19.というバンドをやったり、内橋和久さんとのライヴ・アルバムをリリースしたりと、音楽との関わり方にも共感をおぼえました。

オフサイトでのいろいろな試みもそうですけど、「これだったら私にもできるかも」みたいな、そういう親近感が湧く感じもありましたね(笑)。オフサイトでは発表したことはなかったけど、そういえば昔、大友良英さんが開いていたGRID605というスタジオ兼イベントスペースでI.S.O.と対バンさせていただいたことがあります。敷居が低いのが何より重要でした。古くさい銀座の貸し画廊をわざわざ借りて作品を発表するのとか、お金も無駄だし、表現ももっさりすると思ってた(笑)。それよりも音楽の現場のスピード感が性に合っていたのだと思います。

——実際に誰でもできるかどうかはともかく、「できるかも」と思わせるという意味では、パンクにも近い気がします。

毛利:そうそう。あと、フルクサスも完全にそうで、芸術を後生大事にするのではなく、日常生活も表現として捉えていましたよね。アート・ヒストリーの中でフルクサスほど多くの表現者を輩出した運動体もなかなかないですし、白人男性中心の世界だったアメリカのアート界においてアジア人や女性といったマイノリティが活躍できる場を創出したということはとても重要で。やっぱりチャレンジ精神、パンク精神、実験精神は今でも大好きですね。

——『音楽と美術のあいだ』に収録された大友良英さんとの対談で、水戸芸術館での「アンサンブルズ2010―共振」展について、毛利さんは「これはもしかしたらフルクサスくらいのムーヴメントになるんじゃないか」とも仰っていましたよね。

毛利:そんな生意気なこと言ってました?(笑)でも、確かに3.11の震災前までは、もっと「サウンド・アートをやるぞ!」みたいな意気込みはありましたね。それが震災でごっそり持っていかれた感じはあります。だからそんなに簡単じゃないんだなと。今はもう、とにかく自分の制作を続けて、100年後になんらかのムーヴメントがあったように見えるならそれでいいかなと思っています。

パフォーマーとしての毛利悠子

——パンクといえば、毛利さんは大学時代にSisforsoundというハードコア・バンドでヴォーカルを担当していました。

毛利:ははは(笑)。あれ、最近になってDATで録音していた音源を全部デジタル化したんです。いつか発表できればとは思ってメンバーと連絡を取り合っています。

——あ、そうなんですね。Sisforsoundでは言葉にならない叫び声のようなヴォーカルを披露していましたが、なぜミュージシャンではなくあくまでも美術家として活動するようになったのでしょうか?

毛利:単純に、あのヴォーカルはお酒が入ってないとできない酔っ払い芸だからです(笑)。いや、真面目な話なんですが、誰にでも何かを表現したい欲望ってあるじゃないですか。特に若い頃はハンパないエネルギー量があって、でも言葉にはできなくて、それを酔っ払った勢いに任せて表出していた。それだけなんです。だから冷静になって振り返った時に恥ずかしいと感じたり、毎回酔っ払うのは大変だと思ったりして(笑)。アートだとそういった欲望をアジャストすることができるので、そっちの方が自分のテンポに合っているなと。

——Sisforsound時代の音楽活動は今の毛利さんの活動と繋がっているのでしょうか? それともそこには切断がありますか?

毛利:やっぱり繋がっていると思います。誰もやっていないことをやりたいというモチベーションは昔も今も変わらないのですが、最初はまだ赤ん坊みたいで、それこそ言語も方法も持ち合わせていないから、とにかく酔っ払って自分のエネルギーをそのまま表出しているだけでした。それがだんだんいろいろな方法を身に付けていって、欲望やエネルギー量をある程度コントロールしながら作品へと落とし込むことができるようになったのかなと。

——バンド活動ではないですが、例えば梅田哲也さんや堀尾寛太さんは展示だけでなくパフォーマンスも積極的に行っています。毛利さんはなぜパフォーマンスをあまり行わないのでしょうか?

毛利:パフォーマンスだと自分を出さなきゃいけなくて、それがすごく苦手なんです(笑)。展示会場でさえ、その場に自分がいると違和感があるんです。私、声が大きいから、作品が出す音とバッティングしちゃう(笑)。

だからなるべく人前に出ない方がいいなとは思っていたんですけど、2年前に銀座ソニーパークで「SP. by yuko mohri」という展覧会をした時に、コロナ禍だし新しいことにチャレンジしようと思って、鈴木昭男さんとパフォーマンスをやりました。でも、シラフで演奏のようなことをするとテンパってしまうから、私はガンマイクを持って、パフォーマンスをする昭男さんに付いてレコーディングするということを試みたんです。具体的には、昭男さんが鳴らした物音のピッチをガンマイクで拾って解析し、その音階がほぼ同時に自動ピアノでライヴ演奏されるというパフォーマンスです。それはホーダウンという友達の映像会社に撮影してもらって『Parking for Quarantine』という映像作品としてまとまって、まだ地方で少し上映しただけなんですが、かなり納得いくものになりました。昨年5月にも、中島吏英さんとアムステルダムの音楽祭で同じ仕組みのパフォーマンスをしたりしてます。

——では、パフォーマンスは封印しているわけではなくて、機会があれば今後もやる可能性があるのでしょうか?

毛利:そうですね。自分なりにいろいろな表現に取り組んでいこうとは思っています。フルーツを使った《Decomposition》でも、短いタームで表現がダイナミックに変わる様子も見せたくて、パフォーマンス作品ができないかと試行錯誤しているところです。

「東アジアについてもっと考えたい」

——最後に、今後の目標や展望について教えていただけますか。

毛利:東アジアについてもっと知りたいし、考えたいと思っています。今、台北在住のアメリカ人キュレーターから、公園をフィールドにしたサウンド・アートの展覧会の話をいただいていて。川口貴大くんとかヤン・ジュンとか、日本や中国、台湾、アメリカのサウンド・アーティストに声をかけているみたいです。台北のとある国立公園にある石灯籠にスピーカーが設置されていて、それを使った展覧会をしたいと。日本による占領時、そのスピーカーからラジオ・プログラムを流して、台湾の人々に日本語や日本の文化を“教育”していたという背景があって、植民地時代からポスト植民地時代までを、4ヵ国のアーティストそれぞれがそれぞれの国の歴史的立場から、サウンド作品として提出するという企画です。

それでどういう作品を制作するか考えているところなのですが、先に述べたように、サウンド作品といっても私が作曲することはなるべく避けたい。植民地時代の台湾について、占領していた国の立場から音をどうやって紡ぐかを考えていて、東京藝大のアーカイヴは使えるかもしれないな、と。当時の東京音楽学校は、東アジアで唯一の帝国主義国だった日本において──ということは東アジアにおいて──“西洋人から正統な西洋近代音楽を学べる”唯一の学校でした。そこには日本の学生だけでなく、支配下にあった東アジアの国々の音楽家の卵もたくさん留学してきていたわけです。この教育機関には、東アジア諸国だけでなく欧米の帝国主義も含んださまざまな視線の交錯と倒錯の歴史が今も眠っています。

東アジアの国々に対する日本のふるまいは消えることのない歴史です。台北の展示と、あと来年は光州ビエンナーレにも参加する予定なので、この機会にもっと調べたいなと。日本人として、東アジアをどう考えるのかということは非常に重要だと思うんです。

——東アジアに目を向けるということには、欧米中心主義的なアートの世界を崩したいという思いもありますか?

毛利:いや、そんな思いは持っていません。ただ、ステートメントくらいは出しておいたほうがいいな、と。なんだかんだ言ってみんな、信じられないくらい東アジアのことを知らないですからね。アメリカやヨーロッパで展示する時もイチから説明しないといけないことだらけで、唖然とすることもあります。だけど野暮を承知でいろいろと説明していかなければいけない。例えば、2021年に岩波書店の『図書』に発表した「アキバ」というエッセイは、秋葉原で漁ったジャンクで電子工作することから始まった私の表現の出自を、戦後東アジアの地政学に位置づけなおす作業でした。

私が「東アジア」について考えたいのは、「西洋と東洋」といった枠組みともまた違う視点です。歴史を遡れば日本も大陸文化の派生であることは明らかなわけで、分断しているのはつい最近の話。といってももちろん、東アジアが全部同じカルチャーだというのではなく、むしろそこにある差異=動きについて考えてみたい。「光州よ、永遠に!」という交響詩を作った作曲家の尹伊桑(ユン・イサン)と武満徹さんとの対談を読んで、思いを新たにしたところです。私も、いつかは東アジアの美術家として見られる存在になれればと望んでいます。

■Neue Fruchtige Tanzmusik
会期:12月3日まで
会場:Yutaka Kikutake Gallery
住所:東京都港区六本木6-6-9 2F
時間:12:00〜19:00
休日:日〜月曜、祝日
入場料:無料
公式サイト:www.yutakakikutakegallery.com

■モレモレ東京
会期:12月24日まで
会場:AKIO NAGASAWA GALLERY GINZA
住所:東京都中央区銀座4-9-5 銀昭ビル6F
時間: 11:00〜19:00(土曜のみ13:00〜14:00はクローズ)
休日:日〜月曜、祝日
入場料:無料
Webサイト:https://www.akionagasawa.com/jp/exhibition/more-more-tokyo/

Photography Hiroto Nagasawa
Edit Jun Ashizawa(TOKION)

author:

細田 成嗣

1989年生まれ。ライター、音楽批評。編著に『AA 五十年後のアルバート・アイラー』(カンパニー社、2021年)、主な論考に「即興音楽の新しい波──触れてみるための、あるいは考えはじめるためのディスク・ガイド」、「来たるべき「非在の音」に向けて──特殊音楽考、アジアン・ミーティング・フェスティバルでの体験から」など。国分寺M'sにて現代の即興音楽をテーマに据えたイベント・シリーズを企画、開催。 Twitter: @HosodaNarushi

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