ヨシ・ワダの音楽を受け継ぐ次世代の表現活動——日野浩志郎 × FUJI|||||||||||TA 特別対談・後編

2021年12月18日、山梨県北杜市の山奥にある廃校を舞台に、同年5月に他界したドローン界のパイオニア的存在であるヨシ・ワダに捧げたコンサート「INTERDIFFUSION A tribute to Yoshi Wada」が開催された。最寄駅からバスで約1時間の距離に位置する旧小学校の体育館内に、白地の布で全面が覆われた特設会場が設えられ、開演前は妖しげな紫色の光が幻惑的な雰囲気を演出。山中で、しかも寒波到来の日ということもあり、次第に手足の感覚を失いかけてしまうような寒さに襲われたが、まるでこの世ならざる異界に迷い込んだかのような得がたい視聴覚体験でもあった。

コンサートでは音楽家/作曲家の日野浩志郎と自作パイプオルガン奏者/サウンド・アーティストのFUJI|||||||||||TAこと藤田陽介の2人がこの日のために共同制作した約80分にわたる作曲作品を、計10名のメンバーからなるアンサンブル編成で演奏。音が相互拡散(Interdiffusion)するように混じり合うエレクトロアコースティックなドローンはまさにヨシ・ワダを彷彿させる一方、各プレイヤーの卓越した演奏と音響操作が空間全体をデザインしながら繊細かつダイナミックな音場を創出し、さらにサウンドと同期/非同期を繰り返すライティングも加わることで、あたかも宗教儀式のような、しかしあくまでも即物的な実験でもあるような非日常的時空間をもたらした。

今の時代にヨシ・ワダの音楽と向き合うとはいかなることなのか。あるいはそこからどのような可能性を引き出すことができるのだろうか。トリビュート・ライヴの中心人物である日野浩志郎とFUJI|||||||||||TAによる、前後編に分けてお届けする特別対談の後編では、「INTERDIFFUSION」におけるトリビュートの内実や2人の活動にまつわるアカデミック/非アカデミックおよび音楽/美術の捉え方、さらにヨシ・ワダと並べて聴きたい音楽のレコメンドまで伺った。

「INTERDIFFUSION」におけるトリビュートの内実

——トリビュートと一口に言ってもさまざまなアプローチがあり得ると思います。今回の「INTERDIFFUSION」では、ヨシ・ワダのどのような要素を、どのように今の時代の表現として取り入れようと企図しましたか?

日野浩志郎(以下、日野):「この要素をトリビュートとして取り入れよう」という話はほとんどしなかったですね。そもそも僕にとっても藤田さんにとっても、ヨシ・ワダという存在が自分達の音楽活動の中にとても大きなものとしてある。だからそれを共通認識として持ちながら新たな作品を制作するだけでもヨシ・ワダのトリビュートとして意味があるのではないかと思いました。もちろんその過程で自分なりにヨシ・ワダを見つめ直すことはあって、例えば『Earth Horns with Electronic Drone』(2009年)におけるパイプホルンとオシレーターの関係を参考にしつつ、藤田さんの自作パイプオルガンと僕のオシレーターのデュオがどうしたら溶け合うのか試行錯誤を繰り返しました。そしてそのデュオをベースに他の楽器を加えてアンサンブル編成での楽曲の構想を練っていきました。けれどそうしたアプローチ自体は僕等にとってそこまで重要ではなくて、むしろヨシ・ワダから影響を受けた世代が新しい表現を生み出しているということに一番大きな意味があったのかなと。

FUJI|||||||||||TA(以下、藤田):そうですね。具体的な要素を取り入れることよりも、ヨシ・ワダを頭の片隅に置いて彼の存在を意識しつつ制作するということがトリビュートとしては第一義的に重要でした。それと個人的にはヨシ・ワダをきっかけに日野さんと初めて共演できたことも大きくて、僕にとってはそれだけでとても価値があったんです。ヨシ・ワダという存在がいたからこそそうした場を設けることができた。なのでシンプルに2人で新作を作っていくのがいいだろうと思いましたね。

——ヨシ・ワダ作品の再演やアレンジではなく、あくまでも新作を作ることにしたのはなぜだったのでしょうか?

日野:僕の中では2つ理由がありました。1つはヨシ・ワダ作品をトリビュート・イベントで再演するとしたら、他にもっと適した人物がいるということ。つまり(ヨシ・ワダの息子でもある作曲家/パフォーマーの)タシ・ワダさんがいらっしゃいますよね。なので自分で再演する必要性を感じませんでした。もう1つはヨシ・ワダさんにとっても、同じ作品を再演するよりも、彼に影響を受けた人達によって新たな音楽が生み出される方がいいんじゃないかと思ったんです。だから全く新しい作品をトリビュートとして作ることにしました。

藤田:そこは暗黙の前提として話すまでもなく共有していましたよね。

日野:そうそう。再演という案が出ることすらなくて、「何を作ろうか?」と話すところからスタートした。たとえタシ・ワダさんが今後再演しないスタンスでいたとしても、いずれにしても僕等は新しい作品を作っていたと思います。ヨシ・ワダ作品を第三者が反芻する試みは、アカデミックな領域でしっかりと検証作業を行った方がいいのではないかと。僕達はあくまでも表現者なので。

「あくまでも非アカデミックな世界を出発点に」

——例えば聴覚文化論の金子智太郎さんが「日本美術サウンドアーカイヴ」で取り組んでいるように、過去の音響作品の再演はアカデミックな調査/研究があるからこそ丁寧に掘り下げることができるとも言えますよね。

日野:九州大学で准教授を務めている城一裕さんという方がいて、僕は一緒に作曲の授業をやらせていただいているんですが、彼はやっぱり研究者なのでアカデミックな知見から作品を精緻に分析するんです。それこそ金子さんと一緒にやっている「生成音楽ワークショップ」ではスティーヴ・ライヒの《振り子の音楽》やアルヴィン・ルシエの《細長いワイヤーの音楽》などを彼等なりのやり方で再演していて、どんなふうに音響現象が生成するのかを緻密に検証していく。反対に言うと彼等のような優れた研究者が過去の作品を再演し、しっかりと分析し、そして説明するという役割を担うことができるからこそ、僕等はそうではないところで、新しく作る側の人間として自分達の役割を果たさなければならないなと感じているんです。

藤田:それは僕も同じように考えています。ちなみに日野さんはアーティスト活動をする一方で、九州大学で非常勤講師を務めてもいるじゃないですか。アカデミック/非アカデミックということで言うと、日野さんは自分の活動をどちらに位置づけているんですか?

日野:うーん……確かに、アカデミックな世界への興味はめちゃくちゃあるんですよ。実際に教える立場にも立っている。けれど僕は大学を中退しているし、いわゆるアカデミックな教養があるわけではないんですよね。なのでいわばアカデミックと非アカデミックの狭間にいるような感覚です。

藤田:非アカデミックなところを出発点にしつつ、アカデミックな文脈も踏まえて制作する、というのが日野さんの音楽活動のおもしろいポイントだと思うんですよ。アカデミックな世界でも勝負するけれど、あくまでも非アカデミックな世界がベースにある。それはとても重要じゃないですか。そういう立ち位置で活動するミュージシャンは少ないですし、やろうと思っても簡単にできることではない。実際にそれを体現できる能力が日野さんにあるから可能なのだと思います。それは傍から見ていてすごいなと。

日野:アカデミック/非アカデミックと二極化するのは難しいところはありますが、実際はアカデミック側からは未だ認識されていないように感じるし、非アカデミックな方面からは僕のことをアカデミックだと捉えている人もいるだろうとも思います。けどその中で重要になるのは、藤田さんが言うように非アカデミックがベースにあるということ。最近は現代作曲家とか言われることもありますが、YPYやGEIST等、僕の活動するすべてのプロジェクトはバンドでの経験や考え方が土台にあります。とはいえ、アカデミックな分析や表現方法にも強い興味はあるので、どちらの視点も持っていたいと思っています。

ただ、自分が置かれる環境が曖昧になればなるほど、現場にいて苦しくなることもあるんですよ。例えばアカデミックな世界の中で表現する自分はかなり浮いている存在で、なかなか受け入れられない状況を前提に表現することになる。もちろん「やってやるぞ!」と気持ちが奮い立つこともありますが、実際に表現する時には苦痛を伴うこともある。それはダンス・ミュージック界でも同じなんですね。やっぱりテクノの文脈の中に自分が置かれると、どうしたって異質なんです。じゃあそっちの文脈に染まりたいのかというと、もちろん興味はあるけれど、必ずしもその文脈で表現をしたいわけではなかったりする。けれど現場によってはお客さんはテクノを求めているので、お呼びじゃないと思われることも多い。だから狭間にいることは常に苦しみとともにあるんです。けどその苦しみを伴う分、異質な自分が受け入れられたときの喜びも大きい。でも今回の藤田さんとの「INTERDIFFUSION」の制作は心地よかった。試み自体が狭間にあるようなものでもあったので。

音楽と美術の狭間、または両者の違いについて

——ヨシ・ワダは音楽と美術の狭間にいる存在とも言えます。お二人にとって彼の活動は音楽家として位置づけているのでしょうか? それとも美術家でしょうか?

藤田:僕は音楽寄りのアーティストとして捉えています。もちろんヨシ・ワダ本人には音楽とは異なるヴィジョンがあったのでしょうけど、僕の中では美術家として位置づけているわけではなくて。

日野:難しいですよね。ヨシ・ワダは美術家でありつつ美術家ではなくて、それは音楽に関しても同じように指摘できる。どちらかに位置しているわけではないので、やっぱり両方の狭間にいるような存在じゃないかなと。後期にインスタレーションの方向へ向かったというのも、美術寄りに転回したように見えるだけで、やっていること自体は本質的には変わらない。

——日野さんと藤田さんの活動も、音楽と美術の狭間をいく側面もあると思います。例えば音楽とサウンド・アートの違いについて、お二人はどのように捉えていらっしゃるのでしょうか?

藤田:違いについてはいろいろな見方ができますよね。よく言われるのが、例えば作者が現場にいるかどうか。現場にいればパフォーマンスとして音楽に括ることができるし、いなければインスタレーションとしてアート文脈で扱うことができる。後者がサウンド・アートと呼ばれることになりますが、じゃあそれが定義かといったらそんなことはない。アート文脈のパフォーマンスもありますし、音楽であっても作者が現場にいないライヴはたくさんありますから。なので、あくまでも表現が位置する文脈の違いにすぎないというか。あとは作者自身が音楽として提示しているのか、それともサウンド・アートの文脈に位置づけようとしているのか、という違いで分けることもできますけど、たとえ本人が音楽だと思っていてもアート文脈で扱われたらサウンド・アートとカテゴライズされることもある。

日野:そう思います。それに、ある作品がサウンド・アートであるか否かよりも、サウンド・アートとも呼べるし音楽とも呼べる、そういうふうにどちらかに規定し切れない狭間にあるものに惹かれることは多いです。あとはさっきのアカデミック/非アカデミックという問題もあって、ヨシ・ワダの場合は感覚的なレベルで勝負して、出来上がった作品が結果的に音楽的であったりサウンド・アート的であったりしている。それは非アカデミックな姿勢を貫くことから生まれる揺らぎとも言えて、アカデミックな世界だと多くの場合は最初に目的と終着点を設定し、そこに向けて制作を進めていきますよね。ヨシ・ワダにとってパイプホルンという創作楽器を作ることは最初に設定した目的だったのではなくて、いろいろと試した結果そういうおもしろいものが生まれた。それが録音されることで音楽というフォーマットに帰着したということなのかなと。

——制度としての音楽と美術について、現場でそれぞれの違いを感じることはありますか?

藤田:それはものすごく明確にあります。例えばアブの幼虫の音を可聴化した《CELL》というインスタレーション作品で僕が参加した「札幌国際芸術祭2017」であれば、明らかにアート文脈の現場として存在しているんですよ。なので音楽の現場でライヴをする感覚とは取り組み方が全く違っていて、そこはかなりハッキリしていると思います。制度としての違いを考えると僕はやっぱり音楽寄りの人間だという実感があって、結局は音楽の現場で演奏したくなってしまう。その方が安心できるんです。

日野:僕はアートの現場でやったことはほとんどないんですよね。舞台公演などは資金調達から現場作りまで基本的に自分達で行ってきたし、音楽以外で誘われることはほぼ無い。ただ、ちょうど今インスタレーションに取り掛かっています。僕もやっぱり音楽寄りの人間ではありますけど、アート文脈の現場だからこそ新たな自分の側面を見出すこともできるんじゃないかとは思う。

藤田:ライヴ・パフォーマンスではなくてインスタレーション形式だから成立する作品というのはありますよね。作品における時間軸の捉え方もライヴとインスタレーションでは変わってくるので、そういったサウンド・アートの現場だから挑戦できることはいろいろあると思います。ただ、個人的にはやっぱり美術館のような場所は自分に向いていない気がするんです。もちろん現場によってさまざまなので一概には言えないですが、美術館という場所が役割として持つアーカイヴ的な側面と折り合いをつけるのが難しい。例えばサウンド・インスタレーションを制作するのであれば、美術館で発表するよりも、同じ作品を別の空間にインストールした方がおもしろくなりそうだと感じてしまう。そう考えると日野さんのように現場ごと自分で作ってしまうのがベターな気もします。

ヨシ・ワダと並べて聴きたい音楽のレコメンド

——「INTERDIFFUSION」をきっかけにヨシ・ワダの作品を聴き始めたというリスナーもいると思います。そうしたリスナーに向けて、ヨシ・ワダと並べて聴いてほしいと思う音楽がもしあれば教えていただけますか?

藤田:ジャンルも活動時期も全然違いますけど、ヨシ・ワダと並べるならエリック・サティかなと思いました。いろいろと親和性がある気がするんです。サティは今でこそ教科書に載るようなクラシックの偉人とされていますけど、存命中は変人と呼ばれていましたし、没後も1970~80年代にブームが起きるまではずっと異端的存在でした。そのぐらい斬新な音楽を生み出したわけで、従来の西洋音楽の立派な歴史を嘲笑うようなところもあった。ヨシ・ワダのドローンにも同じように既存の音楽史を揺さぶるようなところがあって、そうしたユーモアのレベルでも通じるところがあるんじゃないかなと。

日野:僕は今パッと頭に浮かんだのはSunn O)))のステファン・オマリーが2015年にリリースした『Gruidés』というアルバムです。オーケストラ作品なんですけど、基本的には緩やかに変化するドローンで、ところどころ楔を打つように打楽器的なサウンドが挿入される。そうした時間軸上で構成/作曲するアプローチがヨシ・ワダの『The Appointed Cloud』と似たような感覚を得られる作品だなと思いました。ただ、ヨシ・ワダをきっかけにドローン・ミュージックを掘り下げるとしたら、いきなりステファン・オマリーだと少しハードコア過ぎるかもしれない(笑)。

藤田:それを言うとエリック・サティも全然違いますよね(笑)。

日野:あまり現代音楽やミニマル/ドローンを聴いたことがなくて、これからディグっていくということを考えると、やっぱりラ・モンテ・ヤングが一番いいんじゃないでしょうか。

藤田:あとパンディット・プラン・ナートもぜひ聴いてほしいです。僕の場合は実はヨシ・ワダを聴くより前にパンディット・プラン・ナートを聴いていたので、初めてヨシ・ワダのアルバムを聴いた時に「なるほど!」と思ったことがありました。それとミニマル/ドローンの重要人物でいうならシャルルマーニュ・パレスタインも。ヤングよりもひと回り下の世代ですけど、アメリカ実験音楽におけるミニマル・ミュージックの開拓者の1人です。パレスタインの音楽もドローンの世界ではヨシ・ワダと近いものがあるんじゃないかなと。もしもイベントをオーガナイズするならヨシ・ワダとパレスタインのツーマン・ライヴを企画して観てみたかったですね。

日野:確かに。どういう視点から掘り下げるのかによって、ヨシ・ワダの横にはいろいろな音楽を並べてみることができそうですね。

日野浩志郎
goat、bonanzasのプレイヤー兼コンポーザー。ソロプロジェクトとして電子音楽やフィールドレコーディングなどをカセットデッキでコラージュする「YPY」の活動を行っており、方向性はダンスミュージックや前衛的コラージュ/ノイズと多岐にわたる。多数のスピーカーや演奏者を混じえた全身聴覚ライブ「GEIST」の作曲、演出も行う。国内外のアンダーグラウンドミュージシャンのリリースを行うカセットレーベル「Birdfriend」、コンテンポラリー/電子音楽をリリースするレーベル「Nakid」主宰。
Instagram:@po00oq

FUJI|||||||||||TA
自作パイプオルガンや声、水等によるソロ・パフォーマンスを軸に、イントナルモーリの制作やサウンド・インスタレーション、映画音楽、ダンス作品の音楽等を手掛ける。ソロ活動を中心に、EYƎ (ボアダムス)とのコラボレーション舞台「メモリーム」や、山川冬樹との公演「カントリー・ジェントルメン」など、コラボレーション・ワークも多数。映画音楽やアニメーション音楽の制作、サウンド・インスタレーションといった展示活動など、あらゆる領域で作品を発表する。2021年にロンドンの33-33より『NOISEEM』をリリース。
Instagram:@fujilllllllllllta

■INTERDIFFUSION A tribute to Yoshi Wada
今後の展開として、トリビュートコンサートを撮影した映像作品(2022年5月)、ライブ音源(時期未定)を発表予定。
Instagram: interdiffusion.yoshiwada

Edit Jun Ashizawa(TOKION)

author:

細田 成嗣

1989年生まれ。ライター、音楽批評。編著に『AA 五十年後のアルバート・アイラー』(カンパニー社、2021年)、主な論考に「即興音楽の新しい波──触れてみるための、あるいは考えはじめるためのディスク・ガイド」、「来たるべき「非在の音」に向けて──特殊音楽考、アジアン・ミーティング・フェスティバルでの体験から」など。国分寺M'sにて現代の即興音楽をテーマに据えたイベント・シリーズを企画、開催。 Twitter: @HosodaNarushi

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