「TANAKA」デザイナー、タナカサヨリとクリエイティブディレクター、クボシタアキラ 後編――今が100年後につながっていく

2017年のデビュー以降、着実に人気と評価を高め、今年9月には「TOKYO FASHION AWARD 2023」を受賞するに至った「TANAKA(タナカ)」。最新2023SSコレクションは、デニムを中心とした高いクオリティを見せてきたもの作りに加え、人間像の表現という新たな魅力を生み出し、エモーショナルな美しさを披露した。

タナカサヨリとクボシタアキラ、2人の言葉を余すことなく伝えるため、前編と後編にわたってお送りする今回のロングインタビュー。後編では、時間をさかのぼって2人のこれまでの歩みから、未来のビジョンについて語ってもらった。

前編はこちら

Right→Left
タナカサヨリ
2017年、ニューヨークを拠点に、自身のブランド「TANAKA」をスタート。「TANAKA NY TYO LLC」を立ち上げ、ニューヨーク、ヨーロッパ、アジアなどでグローバルにデザイン活動を行う。洋画家であり、着物のテキスタイルデザイナーだった父と、日本庭園を作る造園家だった祖父の元、自然豊かな新潟県で生まれ育つ。東京モード学園卒業後、「ヨウジヤマモト(Yohji Yamamoto)」社にて企画、ニットカットソーデザイナーとして経験を積んだ後、「ファーストリテイリング」社に入社、「ユニクロ」の東京、上海、ニューヨークオフィスにてウィメンズグローバルデザインチームのリーダーを務めた。

クボシタアキラ
2020年より東京にて本格的に「TANAKA」のクリエイティブパートナーとなる。「ヒューマンメイド(HUMAN MADE)」を中心に国内外の企画にも携わり、クリエイティブディレクションや空間演出も強みとする。文化服装学院スタイリスト科卒業後、「ファーストリテイリング」社に入社。「ユニクロ」の東京、上海、ニューヨークオフィスで「UT」、アクティブウェア、ニットウェアを中心に、メンズグローバルデザインチームのリーダーを務めた。
https://ja.tanakanytyo.com
Instagram:@tanakanytyo

新しい道が、新しい目標を生む

——お2人とも専門学校出身で、タナカさんが東京モード学園、クボシタさんが文化服装学院ということですが、学校を決めた理由は?

タナカサヨリ(以下、タナカ):育った環境もあって、ファッションの道を志すのはすごく自然なことでした。私は新潟生まれで新潟で暮らしていた高校時代、テレビで東京モード学園のCMがよく流れていたんですよね。新潟で当時情報の少なかった私にとっては、この情報がすごく大きかったんです。あとは、小さい時から海外を志していたので、パリに行きたいと思っていました。それで東京モード学園にはパリ校進学コースがあったので、それも大きな理由でした。

——それでは入学後、パリ校へ進まれたのですか?

タナカ:パリ校進学コースに入学はしたんですけど、なにせ新潟から東京に行くことが当時の私にとってはビッグチェンジで、もうそこでいっぱいいっぱいになってしまいました。入学から1年後にはパリへ行けたのですが、ちょっとおじけづいて19歳の私はパリを断念しました。

——けれど、今のタナカさんはニューヨークを拠点にし、海外を舞台に活動しています。

タナカ:子どもの頃からの志があって、時間はかかりましたが、力をつけ海外で活動していこうという気持ちにつながっています。

——クボシタさんは、文化服装学院のスタイリスト科に入学しています。

クボシタアキラ(以下、クボシタ):当時は、スタイリストの野口強さんや伊賀大介さんが活躍されていて、その姿に憧れてスタイリストになりたいなと思ったんですよね。でも、入学後早々に方向転換しました。

——それはなぜですか?

クボシタ:スタイリストアシスタントだけでは食べていけませんし、東京に実家があるような子じゃないと生活できないなと思ったんです。僕は両親が2人とも公務員で共働きでしたので、家を出るという考えが当たり前で、手に職をつけなきゃ駄目だという気持ちもありました。

——ではスタイリストの次に新しく目指したものはなんでしたか?

クボシタ:スタイリストになることを早々に諦めてからは、グラフィックデザイナーになりたいと考えました。ただ、当時の僕はグラフィックは好きだったんですが、パソコンをさわれたというぐらいでした。学園祭で開催するファッションショーのポスターを制作したり、映像を制作したりする程度で、本格的なグラフィックデザインは会社に入ってから学びましたね。

——その会社というのが「ユニクロ」ですね。どのようにして文化服装学院のスタイリスト科から、「ユニクロ」のグラフィックデザイナーというキャリアが実現したのでしょうか?

クボシタ:グラフィックデザイナーとして働きたいと思っていたんですけど、文化のスタイリスト科にグラフィックデザイナーの求人が来ることはもちろんなく、10社ぐらい販売員や企業のスタイリストなどの面接に行っていました。でも、面接に行くと「グラフィックデザイナーになりたいです」と正直に言ってしまっていたので、すべてに落ちましたね。

タナカ:その話を聞くと、本当にもう……。しかも、「3年ぐらいしたら、転職を考えています」とか言っていたそうなんです。ちょっとあまりにも正直すぎるというか(笑)。

——(笑)!!

クボシタ:ですが、そこで「ユニクロ」が唯一、グラフィックTシャツのディビジョンを募集する求人があったので受けてみました。それが「UT」の前身だったんですけど、当時のボスが「イッセイミヤケ」の社長だった多田裕さんで、ユニクロデザイン研究室というR&Dの事務所を立ち上げた方でした。多田さんは、「自分はおもしろい子が好きだから」と言って、僕を採用してくれたんです。

——それでは入社後のキャリアは「UT」のグラフィックデザインからスタートしたのでしょうか?

クボシタ:そうです。そこから、だんだん編物のコアチームに移行していきました。在籍期間も長くて、17年ぐらいやりましたので、上海やニューヨークのオフィスも経験したり、それからまた東京のオフィスに戻ってきてという感じでした。最終的には「UT」チームと、アクティブウェアチームのデザインチームのリーダーをしていました。

——一方、タナカさんは卒業後「ヨウジヤマモト」に入社しています。

タナカ:私達が就職活動していた時は、就職氷河期と言われていたんですけど、ラッキーなことに私は何社か内定をいただけました。でも時代的な不安定さもあってこの会社にすごく行きたいかっていうと、そうではない気持ちの会社も受けていたんです。だから4年間学んできて、記念受験じゃないですけど、自分の心に正直に素敵だなと思うブランドを思い切って受けてみようと思ったんです。それが「ヨウジヤマモト」でした。

——現在のタナカさんのスタイルと、「ヨウジヤマモト」のスタイルにはギャップがあって、不思議な印象です。

タナカ:昔から古着やDCブランド、ストリートブランド、裏原系とのミックスが好きで、ヨウジさんの服を1着も持っていなかった…と言うとちょっと語弊がありますが、「このブランドでなくては!」という感じの強い憧れは、当時どのブランドにも持っていませんでした。そんな中でも、「ヨウジヤマモト」はとてもかっこいいブランドだと思っていて、入社試験を受けました。ただ、面接は自分らしくジーンズで行きました。

——ジーンズで!? 「ヨウジヤマモト」というと黒い服のイメージです。

タナカ:周りはみなさん、黒い服を着ている中、私だけがジーンズをはいていましたね。でも、私はいつもこのスタイルでやっているから、面接の時に取り繕ってもしょうがない、好きな古着やジーンズを身に着けてきましたと面接でも話しました。もしかしたら、その飾らない姿勢が良かったのかもしれないです。

——タナカさんは「ヨウジヤマモト」で企画とニットカットソーデザインで経験を積み、その後「ユニクロ」に行きました。この2社は異なる環境に思えるのですが、どうして「ユニクロ」に?

タナカ:私が転職した頃は、「ユニクロ」がデザイナーズコラボを始めた時期だったんですよね。その時期的なタイミングもあって、先輩から声をかけていただきました。

——そうなんですね。では、お2人が初めて会ったのは、「ユニクロ」時代だったんですか?

クボシタ:そうですね。

タナカ:クボシタさんのほうが先に「ユニクロ」にいました。最初は、自分より先輩だと思っていたんですけど、違ったので驚きました(笑)。

日本人が世界で勝負するために必要なこと

——現在、タナカさんはニューヨークを拠点に活動していますが、海外で暮らすようになって気が付いた日本のいいところ、逆に日本はもっとこうだったらいいのにと感じたことはありますか?

タナカ:ニューヨークの前は上海で2年ほど暮らしていて、正直10数年も日本ベースではない中で、いろいろなことを感じながら今の考えに至るのですが、10年以上たって感じた日本人の良さというのは、「きちんとしていること」でしょうか。

——それを感じるのは、具体的にはどんな瞬間ですか?

タナカ:それはものづくりにもすごく出ていて、先日もカイハラさんを訪れた時、すごくきれいな工場で、その環境を見るだけでこの工場からできる生地は、絶対に高品質だろうということを感じさせるぐらい、しっかりと管理されていました。日本人の真面目で誠実なところは、他の国の方よりもすごく突出しているように思います。

——日本の良さはタナカさん自身にも根付いていますか?

タナカ:アメリカ人と並んで彼らの得意なところで競ってもやっぱりどうしても勝てないし、自分の良さは、最後まで粘り強くやること、細かいところまでコミットすることだと思っていて、そういった自分の中に日本人らしさはあると感じています。

——クボシタさんはいかがでしょうか?

クボシタ:生真面目というか、仕事をちゃんとやろうとする人が多いというのは同じですけど、日本人は競争に慣れてないですよね。日本人がアメリカに行くと……。

タナカ:日本人のこうだったらいいのにと思うところは、プレゼンテーションの部分じゃないですか。

クボシタ:外国人の方はこういう感じでオーバーラップしたりするんです(笑)。

——なるほど(笑)。

クボシタ:日本人は人が言い終わるのを待つことが多いじゃないですか。それが礼儀だと思っていますが、それを海外でやっていると、もう自分のターンなんか一生回ってこないかもしれないというのが海外です。すごいコンペティティブで、ぐいぐい来るんですよね。でもそういう環境に慣れていかないと、あの世界では生きていけないし、外国人は「どうだ! 俺!」という感じでプレゼンをするんですけど、日本人はそれが苦手ですよね。

——クボシタさんにも苦手だった時期はあったんでしょうか?

クボシタ:もう本当に辛酸を舐めていたというか、赴任してからはプレッシャーで、3ヵ月で3キロ体重が落ちました。だけど、海外のそういう姿勢は自分も学んでいかなきゃいけないということで、ちょっとずつ慣れていきました。モノをよく見せるプレゼンテーションに、ニューヨークオフィスのスタッフはすごく長けていて、もしテレビショッピングだったら買ってしまうなというほどでした。同じものでも伝え方で変わるというのは本当に勉強になりましたし、ある意味ショービジネスの世界だと思います。

見据えているのは100年後

——タナカさんは2016年に「ユニクロ」を退職し、2017年に「TANAKA」をスタートさせます。その後、2020年からクボシタさんがクリエイティブディレクターとして参画していますが、どんな経緯があったのでしょうか?

クボシタ:「ユニクロ」時代に独立するという話を初めて聞いた時、同僚だったので「どうするの?」と聞いたんです。キャリア的にも「失敗できないよ」と。「ブランドをやるっていうのは、どういうブランドにしたいの?」と聞いたら、「リーバイス(Levi’s)やヘインズ(HANES)みたいな会社を作りたい」と言ったんですよね。

——モードブランドの名前ではなかったんですね。

クボシタ:それって、ファッションブランドをやるというよりは、下着だったTシャツをグラフィックのメディアにしたり、デニムもそうですし、そのものを生み出す発明っていうことじゃないですか。今の価値観を作った会社で今も現存している会社、それがおごり高ぶっているんじゃなくて、どっちかというとみんなに優しいポジションにいる。そういうものを作ることじゃないかと。

タナカ:「リーバイス」が作業着のデニムを日常のおしゃれ着に変えて、「リーバイス」は100年以上続いて今もみんなに愛されています。「TANAKA」もそういうものになれたらいいなと思いました。

クボシタ:芯があるからいいなって。それなら「続けきゃいけないね」と話して、100年後も絶対続いていること見据えているので、「TANAKA」のコンセプトは「今までの100年とこれからの100年を紡ぐ服」という形に収まりました。

——そういう経緯だったんですか。

クボシタ:2人の間で、初めて合意した瞬間です。

——(笑)。

タナカ:(笑)。

——今まで「TANAKA」の活動をしてきた中で、嬉しさや喜びを感じる瞬間はどんな瞬間ですか?

クボシタ:やっぱり商品が売れることじゃないですか。僕らはもちろん真面目に服作りをしてるから、「いいものにしよう」「いいものだろう」と思ってみなさんにお届けしてますけど、「1日で売れました」といった話を聞くと、僕らが思うよりも早いスピードで売れて、驚きと同時に本当に嬉しいですよね。

タナカ:それって、私達作り手と売ってくださるお店の方々と、お客さまの気持ちが合致した瞬間だと思うんです。それが目に見える時は、やっぱり嬉しくて、すごく大事なことですよね。

——服作りでも同じような体験はありますか?

タナカ:先ほど(前編)のセルビッチジーンズのサンプルが、デニム工場から私が暮らしているニューヨークに送られてきて、そこでサンプルを初めて見たんですが、その時に「よしっ!」と思いました。よくできたデザインだという自負もあるし、カイハラさんの安定した生地のクオリティと、西江デニムさんという工場さんが何の手加減もなくかっこいい加工と縫製で仕上げてきてくれて、それが1つになったのを見た時に、私は1人で小躍りして喜びました(笑)。

——2020年にコロナ禍になってからは、世界的にネガティブなニュースが本当に多く続いて、今は前向きになることが難しい時代に思えます。お2人は時代に対して敏感になりながら、ポジティブなメッセージを発しようとしてコレクションを作られてますけど、これからも時代を見つめながら、コレクションを続けていきたい思いはありますか?

クボシタ:世の中の状況として、今が底辺と捉えるとしたら、あとはもう上がるしかないですよね。

タナカ:みなさんに見ていただけたり、着ていただけたりするものを私達は作っている立場なのでコレクションを通じて、そこに思いを込めたいです。今後はプレゼンテーションやショーも視野に入れてるので、そういう意味でパワーをお届けできたらと思ってます。

——「TANAKA」のコレクションはぜひショーで見てみたいです。

クボシタ:見てもらいたいと思っています。

タナカ:服はやっぱり人が着て動いて、人の行動や日常とともにあるものだと思っているので、それを感じていただけるのはやっぱりショーだと思いますし、「TANAKA」の世界観をもっとわかりやすく表現できたらと思っています。例えば、今シーズンのビジュアルも動いているものになったら、よりその世界観やメッセージをお届けできるのかなと考えると、ショーはすごく大事だと思います。

最後に印象に残った言葉を紹介し、今回のインタビューを終えたい。クボシタは、歴史ある日本家屋を自ら購入してリノベーションしているのだが、その理由についてこう語る。

「昔の家はいい材料を使っていますから。リノベーションした家も、今では建てようと思っても建てられないような材料を使っていますし、自分が保存するしかないと思ったんです」

この言葉に「TANAKA」の哲学が現れていた。「これまでの100年とこれからの100年を紡ぐ衣服。時代、性別を超えて永く愛される衣服」という哲学は、コレクションだけでなくさまざまな場面や瞬間において、タナカとクボシタの精神に宿っているのだろう。世界がどう変わろうとも、「TANAKA」は時代と人間に優しく寄り添った衣服を、きっと私達に届けてくれるはずだ。美しいブルーは、時間と境界を超えていく。

Photography Erina Takahashi

author:

AFFECTUS

2016年より新井茂晃が始めた“ファッションを読む”をコンセプトに、ファッションデザインの言語化を試みるプロジェクト。「AFFECTUS」はラテン語で「感情」を意味する。オンラインで発表していたファッションテキストを1冊にまとめ自主出版し、現在ではファッションブランドから依頼を受けてブランドサイトに要するテキストやコレクションテーマ、ブランドコンセプトを言語化するテキストデザインを行っている。 Twitter:@mistertailer Instagram:@affectusdesign

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