ちょっとしたご褒美はエッセンシャル 連載:工藤キキのステディライフVol.3 

ライター、シェフ、ミュージックプロデューサーとして活動する工藤キキ。パンデミックの最中にニューヨークからコネチカットのファームランドへと生活の拠点を移した記録――ステディライフを振り返りながらつづる。

2023年に入ったということは、パンデミックからもはや今年で3年がたとうとしている。ロックダウンが始まったころに比べると、もはやアレは悪い夢だったとばかりに街の様子はコロナ前に戻りつつある。とはいえ、あの痛手がまだ生々しく映る場所や消えてしまったものもある。少し前の昔のことを思い出しながら、この奇妙な時の流れを書き留めるという連載だが、コネチカットで暮らすようになった最初の1年は、それまでのアメリカ生活とは全く違う1年だった。ニューヨーク在住歴10年のシティマウスが着火剤なしで暖炉の火をおこせるようになったり、朝日や夕日に惚れぼれしたり、オフグリッドの自然の中で生きることを教わったりした、記録しておきたいことがたくさんあった年だ。

2020年のロックダウンを境に、シティが様変わりしたことで一番恋しかったのは、日常を少しスペシャルにしてくれていたもの。近所のグリークカフェ「パイ ベーカリー」のオレンジポテトケーキやバクラバ、フレンチレストラン「ラファイエット」のアーモンドクロワッサンなど、普段の生活の中でちょっとした自分のご褒美にしていたスイーツが消えたのはショッキングだった。エッセンシャルな店として開いていたのは、チェーンのスーパーマーケットぐらいで、そこからはフレッシュベイクのブレッド類は姿を消し、多くのベーカリーも閉まっていた。インスタグラムをのぞくと、自宅でサワードウブレッドを焼き始めた人が続々と増えて、マーケットでは小麦粉とイーストは常に品薄で、自分も数回チャレンジはしたけど上手く焼けなかった。その代わりというより、以前よくケータリングを手伝ってくれていたネオンアーティストのマリコがホームメイドのサワードウとフォカッチャを友人らに焼いていて、それが最高すぎて何度もお世話になった。あの時、幸せにしてくれてありがとうマリちゃん!ブレッドは挫折したけど、スイーツに関してはストロングオピニオンのあるブライアンの指導の元下(笑)、必要に迫られてハマり、いろいろ挑戦した結果、今ではフィナンシェや餅粉を使ったレモンバー、今までそんなに興味のなかったクッキー類も自分好みに焼けるようになった自分を褒めてあげたい。とはいえ、2020年の間にニューヨークでパーフェクトなクロワッサンを手に入れるのは至難の業だった。

それにもかかわらず、家から車で13分のコネチカットのリッチフィールドの田舎町に突如現れたのが、スタイリッシュな佇まいの「Arethusa Amano」というカフェ。「Arethusa Farm」というデイリーファーム(酪農牧場)が展開するこのカフェには、2020年のニューヨークで失ったものがすべてそろっていたのが衝撃だった。美しくてクリスピーなクロワッサンをはじめ、フレッシュなドーナッツ、フレンチスタイルのレモンクリーム、クルーラーはこんなにおいしいと思ったことがないほどのクオリティ。アメリカのブレックファーストの定番であるエッグアンドチーズも自家製のイングリッシュマフィンを使い、卵とチーズもファームから。ベジタリアンの私ですら惚れぼれするブリオッシュバンを使ったキューバンサンド、マスカルポーネのクロフィン(クロワッサンとマフィンが融合した)、月替わりのクッキーなど、値段はニューヨークに比べたら少しリーズナブルなのも嬉しい。カフェの向かい側にはファインアメリカンダイニングのレストラン「Arethusa al tavolo」や、「Arethusa」ブランドのアイスクリームやミルク、チーズ、ヨーグルト、バター、そして春夏には野菜も販売するデイリーストアもある。

なんとオーナーは、シューズブランド「マノロ ブラニク」の経営陣。『セックス・アンド・ザ・シティ』のキャリーのお気に入りのヒールとしてブレイクしたことで、夢だったデイリーファームを1999年に購入したという。“Milk like it used to taste(昔ながらの味のミルク)”と、現在は300頭以上の牛を飼育し、毎日シッポをシャンプー&リンスしてあげるほどクリーンでラグジュアリーに育てている。もちろんアップステートにはオーガニックファームがたくさんあり、ファーマーズマーケットではローカルのフードベンダーによるハイクオリティの原料を使った食品などもたくさん見かけるが、大抵はホームメイド、またはヒッピー的なものが多い(それも大好きだけど)。そんな中ノースコネチカットの小さな街に、ニューヨークと同じように知られているラグジュアリーブランド経由の食文化があるのも悪くない。しかもこんなに近くにあるなんて…どうしても甘さを控えめにしてしまう自分のケーキじゃなくて、少しだけシティが恋しくなったときは「Arethusa」に行く。

Edit Nana Takeuchi

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工藤キキ

横浜生まれ。ライター、シェフ、ミュージックプロデューサー。カルチャー誌でファッションやアートなどのサブカルチャーに関する寄稿や小説を執筆。著書に小説『姉妹7(セヴン)センセイション』、アート批評集『post no future』(すべて河出書房新社)などがある。2011年にニューヨークに拠点を移す。2014年にアートフードプロジェクト「CHI-SO-NYC」をスタート。レストランへのレシピのデザイン、フードを絡めたイベントなど食にまつわる活動をしている。2017年から音楽のプロデュースを始め、EPをリリース。2022年3月にはThe Trilogy TapesからEP『Profile Eterna』をリリース。6月には初のクックブック『I’m cooking for you』を<Positive Message>から出版。レシピのYOUTUBEチャンネルもスタートしている。 kikikudo.com Instagram: @keekee_kud

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