スケートボード映像作家・ROB TAROが『TIMESCAN 2』で捉えた「日本のスケートボード・シーンの奇跡」 インタビュー前編

ROB TARO(ロブ太郎)
1995年生まれ。アメリカ・ニュージャージー出身。10代半ばにスケートボードに出会い、その魅力にのめり込んでいく。2015年に日本へ拠点を移す。カメラを学ぶために通っていた学校は、3ヵ月でドロップアウト。そこからさまざまな人々や日本のスケートボードシーンと出会い、生粋のスケーターとして、またスケートボード映像作家として東京を拠点に活動を始める。これまで撮影をした映像は、『TIMESCAN』としてYouTubeにて公開中。2019年にリリースされたフルレングス映像DVD『TIMESCAN』および、2023年の公開された『TIMESCAN 2』が話題を呼ぶ。ちなみにROB TAROという名前は、日本とアメリカの血を引き“太郎”というミドルネームを持つことから。
Instagram:@rob.taro
Instagram:@timescan

スケートボードと共に生きるスケーター達が、日本各地、さまざまなスポットで技に挑戦をしていく熱い姿をストーリー性のある映像作品へとアップデートして見せるスケートボード・ドキュメンタリーフィルム『TIMESCAN(タイムスキャン)』(2019年)。同作はスケートボードの技を捉えるだけでなく、個性あふれるスケーター達の魅力も紹介してくれる。その中心にいるのが、自身もスケーターである映像作家のROB TARO(ロブ太郎)だ。

アメリカ人と日本人の血を受け継ぐ彼が、日本のスケートボード・シーンに魅せられ、ニュージャージーから日本へやってきて8年。その間に制作をした映像からは、こんなにも日本には個性のあるスケーター達がいること、こんなにも多くの面白いスポットやスケートパークがあることを知ることができるとともに、純粋に「スケートボードっていいね!」と観た人の心をグッと動かしてくれる何かを感じることができる。

そのロブ太郎の最新作となる『TIMESCAN 2』が完成し、先日、神戸と東京で試写会が行われた(現在も全国各地スケートショップにて試写巡回中)。作品に対するステートメントの冒頭に「『TIMESCAN 2』はただのスケートビデオではなく、もっと奥深い作品です」とあるように、ROB TAROの人間の深さが作品にあふれて出ていた。今回、ROB TAROが同作に込めた思いを彼のこれまでの歩みと共に聞いた。前編ではスケートボードとの出会いから映像作家になるまでを語ってもらった。

「皆さんが知らない日本のスケートボードシーンを知ってもらいたい」(ROB TARO)

——試写会を終えて、みなさんの反応はいかがでしたか?

ROB TARO:本当にいい反応ばかりでした。この作品は4年かけて撮影をしたんですけど、ずっと試写会の日を想像して楽しみにしていました。試写会が終わって数日経ちましたけど、まだ現実味がなくて(笑)。スケートボード作品の試写会って、海外なら声が出ることが多いんですけど、神戸でも東京でも最初から最後まで歓声があって、やっぱり声が出る試写会っていいですね。

——上映時間48分、総勢52名のスケーター達が出演されていますが、ストーリー性のある映像が素晴らしかったです。

ROB TARO:スケートボードの映像って昔は1時間くらいのものは普通にあって、それでブランドも稼いでいたと思うんですけど、今はSNSにアップされる短い映像が主流になっていて、1時間の映像作品を作るというのは、本当に少なくなっているんです。どれだけ頑張って何年も時間をかけて作った作品でも、スケートボードのトップのメディアに取り上げられること自体もすごく大変です。しかもスケートボードのトップのメディアにやっと取り上げられたとしても、1円も入らない。

だけど、そんな時代でも4年かけて作っている僕のような人間もいるわけで、48分っていう長い映像でも内容がおもしろければ観てくれるかなって。それを信じて、頑張って作った作品で、結果的に試写会も盛り上がって、本当に涙が出そうになりました。

——『TIMESCAN 2』については後でじっくりお聞きできればと思うのですが、まずはROB TAROさんのこれまでのヒストリーを教えていただけますか?

ROB TARO:1995年にアメリカのニュージャージー州で生まれて、20歳までいました。母が大阪人、父がアメリカ人で、母が子供の頃に日本語を教えてくれていたんですけど、日本人の友達は1人もいなかったし、向こうにいる時は日本語をほぼ使わず、英語で生活してました。

スケートボードを始めたきっかけは、正直覚えていないんです(笑)。12歳か13歳のクリスマスに、板(スケートデッキ)を父がくれて。それも自分が欲しがったとかではなく、いきなりくれて。当時、スケートボードをする友達は周りにいなかったし、近くにスケートパークもなかったんですけど、なぜかスケートボードにハマったんです(笑)。

その頃は「このオモチャ(スケートボード)でどう遊ぶか」ってことばかり考えていました。今でこそYouTubeとかでHow Toとかありますけど、当時はオーリーをどうやって飛ぶのかもわからなかったから、靴とデッキをテープでグルグル巻きにして練習をしたりとかして。高校生になって友達も増えましたけど、僕は変わり者だったから何年もずっと1人でスケボーで遊んでました。高校を卒業したらどうする? みたいな社会的プレッシャーもあったので、そこから逃げる居場所がスケートボードでしたね。

——そこからさらにのめり込んだきっかけは何だったのですか?

ROB TARO:その頃、友達が日本のスケートボードビデオをYouTubeでチェックしていたんです。その映像は、それまで僕が観てきたスケートボードビデオと違って、日本にしかない新鮮さを感じました。僕に日本人の血が混じっているから強く感じたのかもしれないけど、日本のスケートボードビデオにすごくクリエイティブを感じて、さらに夢中になりました。

——どんな日本の映像やスケーターに影響を受けたんですか?

ROB TARO:「大阪ダガーズ(OSAKA DAGGERS)」のチョッパー(Chopper)さんとダル(DAL)さん。それと「タイトブース(TIGHTBOOTH)」の『LENZ Ⅱ』の上原耕一郎さんと宮原聖美さんのパートは、向こうでも人気でインパクトがありました。あと「FESN」の森田貴宏さんの映像作品『overground broadcasting』の「ビリヤードパート」は感動しました。森田さんはスケーターとしてもすごく上手いのに、アーティストとしても素晴らしい。それと「FESN」の同じ作品の宮城豪のパートも本当に衝撃的で、すごく影響を受けました。

——当時、アメリカ側から見た日本のスケートボードはどんなところが魅力的でしたか?

ROB TARO:日本って街は狭いけど、だからこそそれをどう細かく使うかとか、世界のトッププロでも想像しなそうなことをする。日本の街に合わせていくと、自然とそれが日本のスケートボードのスタイルになるんですよね。そのイメージを作ったのは「FESN」で、夜にVX1000というカメラで、技はシンプルかもしれないけど、細かいトリックを撮影する。音楽もクラブミュージックを使ったりして、それに日本っぽさを感じました。

KOICHIRO UEHARAs part from TIGHTBOOTH PRODUCTION’s 「LENZII」
Gou Miyagi – overground broadcasting skate video
FESN /overground broadcasting / FESN Headquarters part(ビリヤードパート)

日本のスケートボードシーンをリアルに体験、サバイブする

——ROB TAROさんが、スケートボードの映像を撮りたいと思ったのはいつ頃からですか?

ROB TARO:アメリカにいる時は、フィルムカメラで写真は撮っていたんですけど、映像は撮っていませんでした。高校を卒業してから大学に行って、普通に仕事もしていて、その頃はスケートボードが好きでしたけど、週に一度すべれたらラッキーみたいな感じでした。

それで大学2年の時に、この先どうしようか迷って、「日本へ留学しよう」と思って、8年前の20歳の時に1人で日本へ来たんです。僕は日本人の血が混じっているし、日本のスケートボードビデオもすごいし………あと、これが一番の理由なんですけど、このまま日本を知らないでいるのも「もったいないな」と思って。

それで東京の学校に行くことになったんですけど、入学前に大阪のおばあちゃんのところにいる時に、自分で調べて電車で1時間半くらいかけて青い路面のスケートボードパークへ行ったんです。その時はまだ日本語を片言しか話せなかったんですけど、スケーター達に話しかけたらみんな優しくて。そしたら「プロスケーターが来たよ」ってみんなが言って。布のデッキテープを見た時にわかったんですけど、世界の中でも一番レアな人……宮城豪さんに出会ったんです。日本で初めて スケートボードに乗った日に、こんなことが起こるなんてって驚きました。

——引きが強いですね(笑)

ROB TARO:それで僕と話をしてくれた人が豪さんを紹介してくれて。豪さんは基本的に人と写真を撮らないのに、その日に一緒に写真を撮ってもらいました。その時の写真は今も大切に持っています。

——その後、学校へ通うために東京へ来ましたけど、その頃は東京でスケートボードはしていたんですか?

ROB TARO:学校はいろいろあって3ヵ月でやめてしまったんですけど、その頃に宮下公園のパークへ滑りに行って、そこで「Greatest 40’s Club」という、僕からしたら日本のトップレジェンドと思えるようなクルーに出会いました。それで彼等がプライベート・スケートパークに誘ってくれたんです。西船橋にある室内にいかついボウルがある「P-NUTS」というプライベートパークがあって、そこに毎週金曜日にすべりに行っていました。

そのうち同い年の柏のクルーとも出会って、ある日彼等が茨城にある「AXIS SKATEBOARD  PARK」っていうスケートパークに連れて行ってくれて。行ってみたら西海岸にあるような大きなコンクリートのパークで。そこに年配のスケーターもいて、「君、良いね。滑り終わったら家に飲みにおいでよ!」ってなぜか誘われて。その人がどういう人なのかも知らずに家について行って、着いたら畑の中にポツンと一軒家があって……クモの巣とかほこりがたまっていたり、割れたガラスは全部スケートボード用のシールで補強されているし、映画に出てくるようなスケーターの家だったんです。しかも壁には「THRASHER」マガジンを始めたファウスト・ウィテロ(FAUSTO VITELLO)がサインした鉄の「Independent」のバットが飾ってあったりして、スケーターにとっては美術館みたいでした。

そこで「ロブは何をしているの?」とその人に聞かれて、学校をやめて寮に住めなくなってしまったと話をしたら、「ここに住んでいいよ」って(笑)。その人は、「Underdog」の田中ケンジさんという人だとわかって、それで引っ越したんです。2度目に会ったのは僕がその家に引っ越す日でしたね。ケンジさんのドキュメンタリーも『TIMESCAN』の時に撮影しています。

LONG DISTANCE EP. 1 – KENJI TANAKA

——どんどん進んでいきますね。

ROB TARO:ケンジさんの家に1年半くらい住んでいたんですけど、当時ケンジさんは海外のスケートボードブランドのデュストリビューションをやっていて。僕がいる時に「コンソリデーテッド・スケートボード(CONSOLIDATED SKATEBOARDS)」っていう有名なスケートボードブランドのチームがバルセロナとサンディエゴから来たんです。

スティーブ・ベイリーとか「THRASHER」の表紙を飾るようなスケーター達もやってきて、一緒に「AXIS」に滑りに行ったんです。僕は大学の頃にカメラを勉強していたから、みんなの写真を撮ろうと思ったんですけど、ツアーに同行しているフォトグラファーがいて、逆に映像を撮るフィルマーがいなかったから僕のカメラで映像を撮っていたら「ツアーの映像の撮影を頼む」って言われて。それで10日間くらい、そのコンソリチームのツアーに同行することになったんです。

それで10日間の撮影が終わったら「編集もよろしくな!」って(笑)。僕はそれまで編集をやったことがなかったけど、自分で調べたり、向こうの意見を参考にしたり、曲はケンジくんに相談したりして何とか完成させて。その初めて作った映像が、「THRASHER」にアップされて。まさかっていう感じでした。

Consolidated & Bassturd’s “Japan Tour” Video

ドキュメンタリー目線でスケートボードを撮り始める

——ROB TAROという名前はその頃から使っているのですか?

ROB TARO:ROB TAROを名乗り始めたのは、コンソリのツアーの前ですね。ある日、朝起きたらケンジ君に「行くぞ!」って言って車に乗せられて、何も知らないまま何時間も走って気付いたら仙台にいて。そしたら「BRIDGE」という室内のスケートーパークで、「TIGHTBOOTH」が主催する「DO DO DO」という大会をやっていたんです。その大会に僕も参加しようと思ってエントリーしようとした時に、名前をなんて書いたらいいのか迷って。そしたらケンジ君が「ROB TAROでいいんじゃね」って言ってきて。僕の本名はROBで、TAROはミドルネームなんですけど、ケンジくんだけ僕のことを「TARO」って呼んでいたんですよ。

それで、ROB TAROで出場して、その大会がとんでもなく熱くて、僕もブチ上がって、いいすべりを残したいと思って、乗ったこともない技に挑戦したりしていたら、気付いたら優勝してたんです。それで「VHS」マガジンにも、「ROB TARO」って名前を載せてくれて、それからこの名前を使っています。

——本格的に映像を始めたのは、コンソリの映像を撮ってからですか?

ROB TARO:そうですね。それからスケートボード関連の映像を撮るようになりました。その頃から、僕がファンだった日本のすごいスケーター達に出会えるようになって、一緒に旅をしたりするようになって。そこでわかったのが、日本にはこんなにもたくさん上手いスケーター達がいるんだということ。それも個性があってスタイリッシュ。僕はアメリカから1人で来たので、それがプラスになったのか、いろいろなクルーと年やジャンル関係なく繋がることができた。だからそれを思い出として残したいなと思ったんです。日本やアメリカの友達、世界のみんなに、「こんな特別なものがあるんだよ」って、そんな気持ちで撮り始めたのが前作の『TIMESCAN』なんですけど、それまで作品を作ったことがなかったから、最初はかなりフリースタイルで。お金もなかったから、ヒッチハイクをして全国を回りながら撮影しました。

——そこから全国各地のローカルのスケートボーダー達と交流をして、リアルなシーンを映像に収めていったんですね。

ROB TARO:スケートボードビデオって技を見せることがほとんどで、それはそれでいいんですけれど、僕はどちらかというともっとドキュメンタリー目線というか。技だけではなく、日本にはこういう場所や、こういうクルーがいるんだとか、それぞれのキャラクターとか遊び方とか、そういうことを紹介したいなと思って。だから「時間を取り込む」っていう意味で『TIMESCAN』なんですよ。思い出を少しずつ溜めて、それを作品にして、自分の中で一生残したいなって。

『TIMESCAN』の1作目は、東京、大阪、茨城、北海道、そして僕の地元ニュージャージーとニューヨークで試写会をしたんですけど、びっくりするほど反響がありました。ニューヨークでの試写会には大きなメディアの人達も来てくれて、「JENKEM」というメディアと知り合うことができました。

——これまでの経緯を聞くと、自然な流れではあるけれど、グッドタイミングで選ばれているような感じもします。

ROB TARO:僕は日本に来る前から、もし自分にチャンスが与えられたら、200%にして返すと決めていたんです。それにプラスしていろいろなスケーター達が協力をしてくれた。みんなすごく熱くて、頑張ってくれた。だからこうして映像作品を発表できるのは本当にみんなのおかげですね。

後編へ続く

Cooperation BAROOM

■「BAROOM」
住所:東京都南青山6-10-12 1F
営業時間:18:00~24:00
定休日:日・月
※イベント開催により変更となる場合もあります
TEL:03-6892-1577
https://baroom.tokyo/access

author:

Kana Yoshioka

フリーランスエディター/ライター。1990年代前半ニューヨークへの遊学を経て、帰国後クラブカルチャー系の雑誌編集者となる。2003年~2015年までは、ストリートカルチャー誌『warp』マガジンの編集者として活動。現在はストリート、クラブカルチャーを中心に、音楽、アート、ファッションの分野でさまざまなメディアにて、ライター/エディターとして活動中。

この記事を共有