「10年後はないかもしれない」大友良英、60代半ばで到達したギター&ターンテーブルの自在境 -前編-

大友良英
1959年生まれ。常に同時進行かつインディペンデントに即興演奏やノイズ的な作品からポップスに至るまで多種多様な音楽を作り続け、世界中で活動する。映画音楽家としても100作品以上の音楽を手掛ける。震災後は故郷の福島でプロジェクトFUKUSHIMA!を立ち上げ、現在に至るまで様々な活動を継続している。福島を代表する夏祭り「わらじまつり」改革のディレクターも務める。
https://otomoyoshihide.com

1980年代後半からライヴ活動を本格化させ、35年以上にわたって唯一無二のキャリアを築いてきた音楽家・大友良英。インディペンデントなノイズ/インプロヴィゼーションのシーンにおける活躍から数多くの映画音楽やテレビドラマの劇伴、あるいは市民参加型のプロジェクトを手掛け、さらにインスタレーションの制作や芸術祭のディレクターを務めるなど、これまで多方面で膨大な数の仕事に取り組んできたことからは意外にも初となる、ギタリスト兼ターンテーブル奏者として録音した全編即興のスタジオ盤『Solo Works 1 Guitar and Turntable』が2023年8月に世に放たれた。

ギタリストとしてもターンテーブル奏者としても大友良英ほどオリジナルなプレイを聴かせるミュージシャンはそういないだろう。全20トラックの小品を収録した『Solo Works 1』は、そのような彼の現在地を克明に記録したアルバムに仕上がっている。そこで今回、大友のプレイヤーとしての側面にフォーカスしたインタビューを実施し、前編ではギタリストとしての活動を中心に話を伺った。かつてギター演奏を「封印」していた時期もある彼は、なぜ再びギタリストとして活動を開始し、そしてどのように独自のスタイルを確立するに至ったのか——。

再びギターを弾き始めた理由

——大友さんが最初にギターを手にしたのは中学時代ですが、その後、20代で高柳昌行さんの門を叩き、あるいはノイズしか出ないギターを自作するなど、ギターとの付き合い方はさまざまに変遷してきたと思います。大友さんとしては、ご自身のギタリストとしてのキャリアはどのように捉えていますか?

大友良英(以下、大友):高柳さんのもとにいた1980〜86年頃は、まだ本格的に世に出てないですし、演奏家としては修行中の身でした。飛び出した後は挫折した以上、もうギタリストとしてはやってけないって覚悟でいました。それで1980年代終わり〜90年代はターンテーブルを使おうと決めてたかな。ただ、やっぱりギターの要素は残したかったので、あえて自作したギターも使ってました。チューニングもできないようにしたノイズ発生装置としてギターを使うことで「ギタリストではない」ってアリバイを作りたかったのもある。

それが転換したのは2000年頃からです。菊地成孔や芳垣安洋が「大友、お前ギター弾け」と散々言ってたのもあるけど、やっぱり率直にギターを弾きたいという思いが強かった。ずっと我慢してきたからね。誰かみたいに弾こうと思わなければいいやって感じで弾き出したのが1990年代終わり〜2000年代頭くらい。だからギタリストとしての自分のキャリアはそれからだと思ってます。

——ギターを使うにしても、例えばキース・ロウみたいにテーブルトップにして、それこそノイズ発生装置を貫くというやり方もあったと思いますが、そこであえていわゆる通常のギター演奏に向かったのは、なぜでしたか?

大友:ノイズ発生装置は別にギターじゃなくても十分にできたからかな。ターンテーブルでもできるし、当時いろんな自作のガジェットも使っていたので。やっぱりチューニングされたスタンダードなギターを演奏したいという気持ちが強かった。もともと高柳さんの教室に入ったのもいわゆるギタリストとして活動したいと思っていたからなわけで、教室を飛び出した後、高柳さんとの関係にある程度とらわれなくなりつつあった時期に、ノイズ発生装置ではない形でギターを弾こうと改めて思ったんです。

——その頃、どんなギタリストを聴いていましたか? 特に印象に残っているアルバム等はありますか?

大友:ギタリストのアルバムを聴き込んで研究したのは、やっぱり高柳さんのところにいた時期。とにかくいろんなものをたくさん聴いてました。もう1回ギターを弾き始めた時は、いちから練習し直さなきゃいけなかったから、結構オーソドックスなアルバムを聴き返していました。ジム・ホールとかね。もちろん、オーソドックスなギターを演奏したかったわけではないので、ジム・ホールのスタイルを取り入れようとしたわけではなくて、ハーモニーの付け方を少し参考にしたぐらい。あくまでも自分独自のやり方で弾けるようになればいいとは思ってました。

2005年のソロ作『Guitar Solo』について

——ギタリストという意味では、やはり2005年のソロ作『Guitar Solo』が1つの節目になるアルバムだったと思います。doubtmusicのレーベル第1弾でもありましたが、大友さんとしては当時、録音作品としてギター・アルバムをどのように作りたいというモチベーションがあったのでしょうか?

大友:1つはやっぱり、昔からの知り合いの沼田順がディスクユニオンを辞めてレーベルを作るというから、餞に音源をプレゼントしたいという思いがありました。あまりお金をかけるわけにもいかなくて、だからスタジオに入らず新宿ピットインのライヴでレコーディングをして(註:録音は2004年10月12日)。プレゼントする以上、他にも参加ミュージシャンがいるとややこしくなるので、ソロにしようと。で、ちょうどその少し前からソロ・ライヴをやっていたし、映画音楽でもギターを弾いていた——実は90年代も映画音楽ではギターをちょこちょこ弾いてたんです——ので、そろそろギターのソロ・アルバムを作りたいと思っていた。ただ、普通のギタリストのような技術があるわけではないから、できる範囲で自分なりのソロ・ギターをやろうという挑戦ではあったかもしれない。

——2002年にデレク・ベイリーがジョン・ゾーンのTzadikレーベルから『Ballads』というソロ・アルバムを出したじゃないですか。内容は大きく異なりますが、それと大友さんの『Guitar Solo』が重なって見えるんです。つまり、どちらも完全即興ではなくあくまでも楽曲を取り上げていて、けれどいわゆる楽曲通りに演奏しているわけでもなくて。もともとインプロヴィゼーションやノイズに取り組んできたミュージシャンがあえて楽曲の演奏に挑んだ結果生まれた奇妙なアルバムになっていると言いますか。

大友:確かに、『Ballads』が出た時はすごく衝撃を受けて、「このやり方もアリなんだ」と思ったのは事実です。何回も聴いたなあ。もちろん、この世界で音楽をやろうと思った時からデレク・ベイリーはずっと大好きだったけど、そのベイリーが『Ballads』を出したのは、実は僕にとって大きかったのかもしれない。例えば『Ballads』は冒頭に「Laura」が収録されているけど、ジャズであれば、「Laura」のコード進行と小節をキープしながら展開していくじゃない? でもデレク・ベイリーの演奏を聴くとそうではないんですよね。テーマから始まるけど、その後は好きなところに行って、また「Laura」に戻ってくる。でもそれで全然成り立っている。それはすごく自由でいいなと思った。

ただ、そのやり方そのものはニュー・ジャズ・クインテットですでに試していたんです。最初にテーマがあって、でもテーマと全く違うアドリブを展開させたり、全然違うところに行ったりしてから最後にテーマに戻るという。それまでのジャズのフォーマットではないやり方は試していて、けれどソロ・ギターでそれをやってもいいんだと気づかせてくれたのは、確かに『Ballads』だったのだと思う。もちろんデレク・ベイリーみたいには弾けないので、僕は自分なりのやり方でやろうとは思っていたけれども。

——楽曲ではなく、完全にノイズ/インプロヴィゼーションだけでソロ・ギターのアルバムを作る、ということは選択肢にありましたか?

大友:その時は選択肢にはなかったです。ノイズや即興だけで録音するのは、もう今更やらなくていいんじゃないかとさえ思っていて。ライヴでは散々やってたけど。で、実はCD-Rで『Guitar Solo Live 1』(1999年)というギター即興の作品を出したことはあるんですよ。だけどあまりおもしろいと思わなくて、即興はその場で消えてしまえばいいやと考えていた。アルバムとしてリリースするなら、ある程度曲の形になっているものを残したかった。当時はその方が新鮮だったんだと思う。

ソロの即興って実は難しくて、本当の意味での即興ではないんですよね。デュオやトリオの場合はその場で考えていることが多いんだけど、ソロだと、純粋にその場で考えているのか自分に問いかけると、そうでもないなと思っていて。それまでのいろいろな経験に強く縛られていて、そこから抜け出すのはとても大変。それにソロ・インプロヴィゼーションのアルバムって、デレク・ベイリーをはじめ先達の素晴らしい作品がたくさんある。オレはああいうふうに即興を切り拓いてきたタイプではない。だからあの時点では、即興やノイズだけでソロ・ギターのアルバムを作ろうという気持ちにはなりませんでした。

「Lonely Woman」は高柳昌行が遺した「宿題」

——仮に即興と楽曲を両端に置くとするなら、大友さんのギター演奏において中間にあるものが「Lonely Woman」のような気がするんです。もともとはオーネット・コールマンの曲ですが、大友さんが完全即興でライヴをやる際も、自然と「Lonely Woman」が浮かび上がってくる時があるじゃないですか。

大友:ある。そう、ギターで即興演奏をやる時に何も参考にしていないかというと、本当はそうではなくて、やっぱり高柳さんのソロ・ギター・アルバム『ロンリー・ウーマン』(1982年)はとても大きかった。影響を受けちゃうからギターを再び手にした時は、聴かないようにしていたけれど。自分の記憶の奥底に秘めておこうと思っていたけど、どうしても頭をよぎってしまう。だったら毎回「Lonely Woman」を演奏してもいいや、と決めたのが2000年代だった。どういう形で演奏してもいいやって。即興演奏の中で突然出てきてもいいし、最初から「Lonely Woman」を弾いて崩していきつつリズムを出すのでもいいし、とにかく演奏しようと決めてた。それはオーネット・コールマンというより、やっぱり高柳さんの存在が、ギターを弾く時に僕にとってあまりにも大きかったということなんだと思う。

もちろんオーネット・コールマンも大きいですよ。彼の作品の中でも最初にハーモロディック的になったのが「Lonely Woman」だと僕は思っているので。あくまでも自分なりの解釈ね。だからそれはどこかでジャズ史と繋がっていたいという思いもあるのかもしれない。とはいえ、オーネットの曲は「Lonely Woman」以外はほぼやっていないから、やっぱり、あくまでも高柳さんを通したジャズ史をどこかで意識してしまっているんですよね。

——高柳さんにとっても「Lonely Woman」はやはり特別な曲だったのでしょうか?

大友:そこは謎なんですよね。知る限り高柳さんはソロでしか「Lonely Woman」を演奏していなくて。ライヴもほぼ全部観ていたけど、アングリー・ウェーヴスのようなグループだと「Lonely Woman」はやらない。ソロの時だけなんですよ。しかも当時の高柳さんは特にオーネット・コールマンについて何も言っていなくて、いつも聞いていたのはアルバート・アイラーの話。なのになぜ「Lonely Woman」だったのか……正直、よくわからない。

ただ、高柳さんが最後に「Lonely Woman」を演奏したのは、おそらく1984年。副島輝人さんと一緒に北海道をツアーしたんだけど、最初のコンサートで「Lonely Woman」を演奏して、他は全てノイズだった。それ以降はもう「Lonely Woman」はやらなくなって、東京に戻ってからも演奏していなかったんです。ガーッてノイズをひたすら出す「アクション・ダイレクト」に移行していったからね。それを傍で観ながら、オレとしては「アクション・ダイレクトの中で『Lonely Woman』を弾いてもいいんじゃないか」とずっと思っていて、高柳さんにも言ったんだけど、その度に「大友、お前わかってない」と言われて。「あれは一緒にできない。違うもんなんだ」って。

そうだよなと思いつつ、でも一緒にやりたくなる欲望にも駆られる。だから僕は「Lonely Woman」を、ノイズの中から突然出てきたり、あのテーマから始まるけど全然違うところに行ったり、そういうものとして演奏してきたのだと思う。「Lonely Woman」は僕にとっては高柳さんが遺した「宿題」みたいなものなんです。高柳さん自身も次のアクション・ダイレクトに行ってしまって、ただ楽曲だけがポンと残されたというか。

大友良英のギター・スタイルの確立プロセス

——『Guitar Solo』のリリースからすでに20年近く経過していて、ギタリストとしての大友さんの活動は、実はそれ以降の方が長いですよね。あえてこういう言い方をするなら、大友さんには独自のギター・スタイルがあるとも思うんです。ご自身としては、いつ頃からそうしたスタイルが確立してきたと思いますか?

大友:2000年代を通じてかなあ。部分的には20代前半からすでにやっていたけれど。2000年代に特にこだわっていたことの1つは、フィードバックをどう扱うかでした。高柳さんもフィードバックは扱っていたけど、「Lonely Woman」の中ではほぼ出てこないんですよね。だからその中にフィードバックを入れたいというか、それを骨格にできないかと思っていて。高柳さんには「フィード・バック」という曲の録音もあって、富樫雅彦さん達と一緒にやった1969年のアルバム『ウィ・ナウ・クリエイト』に収録されている演奏。あれと「Lonely Woman」を混ぜたような、どちらにでも行けるようなものはできないかな、と。

それでフィードバックを飼い慣らしながら、コントロールできる部分/できない部分と付き合いつつ、メロディーや和声にいつでも移行できる、みたいなギター・アプローチを身につけていきました。それは2000年代に入ってから10年ぐらいかけて取り組んでいたかな。それまではフィードバックと言ってもいわゆるノイズ・ギターだったんですよ。ギャーってやるだけ。良くも悪くもだけど、それはコントロールできるものではなかった。そういうアンコントローラブルなノイズ・ギターから、ある程度コントロールしつつ、でもやっぱりコントロールできない部分も残しつつ演奏を進める、みたいな方向に向かっていきました。

——ギターのフィードバックという意味では、大友さんはしばしばジミ・ヘンドリックスからの影響も語られています。

大友:ジミヘンの大部分の演奏は、あくまでもブルースの中でフィードバックを使っているんだけど、1969年のウッドストックでアメリカ国歌を演奏したライヴは、途中から完全にフィードバックになる。あれは今聴いてもカッコいいし、やっぱりすごい。だから、高柳さんの教室に入った最初の頃から、ああいうふうにフリージャズをやりたいとは思ってた。全く似ていないんだけどね、でもそこはジミヘンからの影響だとオレは思ってる。

——フリー系のギタリストと言えば、例えばアッティラ・ゾラーやラリー・コリエル、もしくはソニー・シャーロック等々もいますが、ジミヘンのようにフリージャズをやりたかった、と。

大友:もちろん、ソニー・シャーロックもラリー・コリエルもフィードバックを使うし、ものすごい好きだけど、メロディーラインとフィードバックを行き来するコントロールの仕方としては、オレは圧倒的にジミヘンのやり方が好き。もう20代前半の頃からそうでした。でもそれが実現できたのは2000年代も後半になってからかな。やっぱりライヴの現場でギターを飼い慣らしながら自分のものを作っていったんだと思う。

ドラムに対してギターがどうサウンドするか

——2000年代に大友さんのギター・スタイルを確立するにあたって、特に影響を受けたセッション相手はいらっしゃいましたか?

大友:やっぱり芳垣安洋かな。芳垣のドラムとやった時に、どうサウンドするかということが大きかった。セッションでもバンドでもそうですね。あのドラムに対してギターがどうしたら納得いく感じで鳴るか。特に2000年代は芳垣と一緒に作っていた感じがします。山下洋輔さんが森山威男さんとあのスタイルを作ったように。リズムとかアクセントの作り方とかも含めて、芳垣のドラムに対応できるように自分のギター・スタイルを作ったような気がする。

芳垣に限らず、いろんなドラマーともやるわけで、それぞれで合わせ方があるんだけど、どちらにせよさまざまなドラマーと合わせながら自分の演奏を作っていたんだと思います。まずはそこから始まりました。その上で、サックスやピアノは少し後になってから対応できるようになっていきました。フリー・インプロヴィゼーションを考えるにあたっても、ジャズを考えるにあたっても、ポップスでもそうだけど、まずはドラムとその上でベースに対してどうサウンドするかを考える癖がある気がします。その次がサックスかな。フィードバック音とサックスをどうサウンドさせるかは、すごくおもしろいテーマだった。

ハーモニーとかコードのことを一切考えずにドラムとやる場合は、音色とリズムだけで押し切れるというのもある。そこにベースが入っても、単音同士であれば、ハーモニーはどうにでも可変できるし。なので、ピアノとやる時はどうしても最初のうちはハーモニーを気にしすぎて、できないと思ってたんです。でも、ここ10年ぐらいは変わってきて、むしろおもしろくなっていった。それこそ坂本龍一さんとやり出したのも大きかった。ドラムとやる時とはまた別のアプローチができるんですよね。ピアノのハーモニーに対して、ギターの弦で出す音色なり音程なり、ハーモニーがどう溶けるかというようなアプローチ。それが 2010年代初頭あたりからできるようになりました。今ではピアノとやるのはすごく楽しくて、坂本さんはもちろん、藤井郷子さんや佐藤允彦さんとセッションするのもとてもおもしろいです。

——2011年1月1日に放送されたラジオで坂本さんと初めて一緒にデュオ・セッションをされましたが、その時も「Lonely Woman」を演奏していました。

大友:そうそう。あれ、実は坂本さんから「『Lonely Woman』をモチーフにしましょう」と提案されたんですよ。で、「Lonely Woman」はキーがDマイナーなんだけど、あの時はDマイナーに対して何の音を出しているのか探りながら演奏してた。そういうアプローチをしてもおもしろいものができるという気づきが坂本さんとのセッションから得られて、それまではハーモニー的なアプローチがあまりできないと思ってたからね。だから、最初はやっぱりドラムとの関係で、音色とスピード、あとグルーヴだけで探っていたけど、坂本さんとのデュオあたりからハーモニーも探るとおもしろいなと思えるようになっていきました。

即興演奏の捉え方の変化

——坂本さんとのラジオのトークで大友さんは音遊びの会の話をされていて、「自由」について改めて考えることになったと仰っていました。大友さんと音遊びの会との出会いは2005年ですが、その時期に即興演奏に対する捉え方の変化もありましたか?

大友:あった。すごくありました。それまでは、変な言い方だけど、即興演奏は即興演奏のようにやらなければならないと思ってた。つまり従来のメロディーやハーモニー、リズムが出てしまうのはもってのほかで、要はデレク・ベイリー的な発想でやらなければならないと。けれど音遊びの会と一緒にやるようになってから、そういったことがどうでもよくなってしまったんです。かつては即興演奏といった時に、そこに即興演奏とは別のベクトルのいろんなヒストリーをどう入れていくかを考えながらやってましたが、ちょっと待てよ、と。即興演奏を中心に据える考え方がとても偏っていたと気付いたのがその時期でした。音遊びの会の子ども達と対峙する時に、そんな自分のヒストリーをメインに持ってきても始まらないですから。まずは目の前の一緒に音を出す人のことを考えようと。

坂本さんは坂本さんで、かつてやっていた即興演奏を再評価するようになっていった時期で、それとも重なって、互いに影響を受け合ったような気がします。もちろん即興演奏を即興演奏のようにやるのはおもしろいところもあるけど、それだけでどうこうという時代ではもはやないなと思うようになって、そしてそれは僕がギターを再び演奏し始めた時期ともクロスしているんです。だからギターを必ずしもノイズのように弾かなくてもいいって素直に思えたのかもしれない。チューニングしてもいいし、しなくてもいい。それは自分の中ではすごく大きな変化だったと思います。

——別の言い方をすると、即興演奏を通じて美学的に新しいことを目指すというよりは、あくまでも方法論として人と人がコミュニケーションすることを重視するようになった、ということでしょうか?

大友:そうだと思います。即興演奏って会話みたいなものだから、そこから新しいことが生まれることもあるかもしれないけど、別にそれだけが目的ではない。それに、あまりにも即興演奏に強い価値を置きすぎてしまうのはどうかとも思うようになりました。

まあ、会話と言っても、別に相手が「ポンポン」って音を出したから「カンカン」って返事をする、みたいなことでは全然ないんだけどね。構成をつけてもいいしつけなくてもいいし、共演する相手と自由にやり取りをする状態。それはターンテーブルよりもギターの方が自由にできるなと思ってました。ターンテーブルだとやっぱり応答の仕方が限られてしまうし、何よりセッティングも含め不自由だけど、ギターはもう少し身軽な感じがしました。

もちろん、どこまで行っても自分のギターでしかないから、そういう不自由さは感じてました。ただ、以前であればフリージャズ的なものをやる際にいろいろ考えたり、それこそ高柳さんのこと抜きでは演奏できなかったけど、2010年代以降はそういうこともあまり考えず、自分のやれることをやるという方向に向かったかな。その中でいろいろ自由にできるようになっていったので。

「今の状態は10年後にはないかもしれない」

——今、大友さんにとって、ギターを演奏することの楽しさはどのようなところにあると感じていますか?

大友:これは良いことなのか悪いことなのかわからないし、この言い方が正しいのかどうかもわからないけど、自分の演奏がどんどん上達している感じがしてます。それがおもしろいです。このスピード感で前は演奏できなかったものができるようになった、とか、フィードバックの中で前はできなかったことが今ならできる、とか、そういうことが年々増えている。それが音楽的に良いことなのか悪いことなのか自分では全然わからないけど、そのおもしろさの欲望には勝てない。

もう自分の身体が動くうちは徹底的にそうしたこと、スピードを上げたり、アプローチを増やしていったりってことをやろうと思っている。もちろん、きっと身体的な限界があるから、どこかまでしか行かないんだけど、とにかく今はどんどん行ける感じがする。だからこの『Solo Works 1 Guitar and Turntable』というアルバムを録ることにしたんです。コロナ禍で人前で演奏する機会が激減していたことも録音のモチベーションにはなったけど、でもやっぱり、今のこの状態が10年後にはないかもしれないし、それどころか、もしかしたら今だけのことかもしれない、という切迫感も大きかった。自分と同世代や少し上の先輩達が相次いで亡くなっているからね、ここ数年は特に。

坂本龍一さんも、高橋幸宏さんも、プロジェクトFUKUSHIMA!を一緒に立ち上げた遠藤ミチロウさんも、遠藤賢司さんも、皆、70歳前後で亡くなられているんですよ。で、自分が今64歳ということを考えると、もしかしたら本当に10年後はないかもしれない。そう思うと余計に、今まであまり出してこなかったソロの即興アルバムを出したいと強く思うようになりました。それはギターだけじゃなくて、ターンテーブルもほぼ一緒です。技術的にはギターとターンテーブルは全然違うんだけど、ターンテーブルの演奏も前より遥かに自由にできているので、その両方を今の状態のまま録っておきたいな、と。

■『Otomo Yoshihide Solo Works 1 Guitar and Turntable』
リリース日:2023年8月16日
価格:(CD)¥2,000
トラックリスト
1.turntable with a record 8
2.guitar 2
3.guitar 6
4.turntable with a record 1
5.turntable without a record 1
6.guitar 4
7.turntable with a record 10
8.guitar 5
9.guitar 1
10.turntable without a record 4
11.turntable without a record 6
12.turntable with a record 2
13.guitar 7
14.turntable without a record 3
15.turntable with a record 5
16.turntable with a record 9
17.turntable without a record 5
18.guitar 8
19.turntable with a record 3
20.guitar 3
https://otomoyoshihide.bandcamp.com/album/otomo-yoshihide-solo-works-1-guitar-and-turntable-3

■大友良英 PITINN 年末4デイズ8連続公演
会期:12月26〜29日
会場:新宿PIT INN
住所:東京都新宿区新宿2-12-4 アコード新宿 B1
時間:昼の部 14:30(オープン)/ 15:00(スタート)、夜の部 19:00(オープン) / 19:30(スタート)
12月26日(火)昼の部「The Night Before Pandemic in Fukushima!」
大友良英(G)、岩見継吾(B)、林頼我(Ds)
12月26日(火)夜の部「Small Stone Baritone Ensemble」
大友良英(G, Per, 指揮)、江川良子、東涼太、本藤美咲、吉田隆一(Bs, 指揮)、木村仁哉、高岡大祐(Tuba, 指揮)、かわいしのぶ(B, 指揮)、イトケン、小林武文(Ds, Per, 指揮)
12月27日(水)昼の部「Daytime Special」
大友良英(G)、松丸契(Sax)、石若駿(Ds)、小暮香帆(Dance)
12月27日(水)夜の部「The World Without Him (Peter Brötzmann Tribute)」
大友良英(G)、永武幹子(P)、須川崇志(B)、落合康介(B)、本田珠也(Ds)、山崎比呂志(Ds)
12月28日(木)昼の部「細井徳太郎 キュレートセット」
久場雄太(俳優)、荒悠平(ダンス)、細井徳太郎(G, Vo, キュレーション)、君島大空(G, Vo)、高橋佑成(P, Synth)、大友良英(G)
12月28日(木)夜の部「大友良英 ニュージャズアンサンブル」
大友良英(G)、松丸契(Sax)、高橋佑成(P)、上原なな江(Marimba)、水谷浩章(B)、芳垣安洋(Ds)
12月29日(金)昼の部、夜の部「大友良英 スペシャルビッグバンド」
大友良英(G)、江藤直子(P)、近藤達郎(Key)、齋藤寛(Fl)、井上梨江(Cl)、江川良子(Sax)、東涼太(Sax)、佐藤秀徳(Tp)、今込治(Tb)、大口俊輔(Acc)、かわいしのぶ(B)、小林武文(Ds)、イトケン(Ds)、上原なな江(Marimba)、相川瞳(Per)、Sachiko M(Sinewaves)
http://pit-inn.com/newarrivals/0tomo4days/

■ONJQ : Otomo Yoshihide’s New Jazz Quintet EUROPE TOUR 2024
会期:2024年1月26日〜2月11日
1月26日 Sons D’hiver, Paris [FR]
1月27日 Pannonica, Nantes [FR]
1月28日 Autres Mesures, Rennes [FR]
1月30日 AB Club, Bruxelles [BE]
1月31日 Radar, Aarhus [DK]
2月1日 Jazz Club Loco, København [DK]
2月2日 Nasjonal Jazzscene, Oslo [NO]
2月4日 Pardon, To Tu, Warszawa [PL]
2月5日 Pardon, To Tu, Warszawa [PL]
2月6日 NOSPR, Katowice [PL]
2月7日 Divadlo29, Pardubice [CZ]
2月8日 In Situ Art Society, Bonn [DE]
2月9日 Handelsbeurs, Gent [BE]
2月10日 Centro D’Arte, Padova [IT]
2月11日 Area Sismica, Forlì [IT]

Photography Masashi Ura

author:

細田 成嗣

1989年生まれ。ライター、音楽批評。編著に『AA 五十年後のアルバート・アイラー』(カンパニー社、2021年)、主な論考に「即興音楽の新しい波──触れてみるための、あるいは考えはじめるためのディスク・ガイド」、「来たるべき「非在の音」に向けて──特殊音楽考、アジアン・ミーティング・フェスティバルでの体験から」など。国分寺M'sにて現代の即興音楽をテーマに据えたイベント・シリーズを企画、開催。 Twitter: @HosodaNarushi

この記事を共有