昨年2月に公開された映画『うたのはじまり』は“ろう”の写真家・齋藤陽道が子育てを通じて、それまで嫌いだった“うた”との出会いから、“うた”に対する自身の心情の変化を描いた作品だ。同作では齋藤が聴者の息子との対話の難しさから距離をおいた“うた”に対し、自分の口からこぼれた子守歌をきっかけに訪れた変化を綴っている。コミュニケーションをテーマに撮影を続ける河合にとって3作目となる『うたのはじまり』は、奇しくも上映が新型コロナウイルスのパンデミックと重なったことで、改めてコミュニケーションの本質を浮き彫りにした。
――『うたのはじまり』を撮り始めた時に、“音を見る”という行為をどのように表現しようと思いましたか?
河合宏樹(以下、河合):最初は“声”をテーマにしようとは思っていなかったんです。ただただ、齋藤さん自身が魅力的という理由でカメラを回したので、何1つ、テーマも映画化すらも決まっていなかったですね。約2年間追い続けた中で“声”とか“うた”が気になりだしたのが、冒頭シーンの出産に立ち会った時。撮影のお願いをしたタイミングがたまたま出産時期と重なっただけですが、今思うと声がけも含めて奇跡的な瞬間でした。
出産時に、樹くんの産声と奥さんの歓喜の声が上がった直後、齋藤さんから「何て言ってるの?」と聞かれるまでの一連が衝撃的な経験でした。それから産声とか歓喜の声について「どんな色をしているの?」「どんな形をしているの?」「なぜみんな感動しているの?」とぶつけられた質問に何1つ答えられなかったんです。聴者として慣れてしまった“声”という存在に対して自問自答を繰り返す中で、齋藤さんに質問し返したり、一緒に考えながら進めていきました。
――テーマがあって、周りを固めていくようなセオリーではなかったと。
河合:泣ける感動作のようにはしたくなかったですね。齋藤陽道っていう人間の魅力をそのまま届けたいというだけ。振り返ると、膨大な取材を通してコミュニケーションを考える映画でもあったと感じてはいます。今はSNSなど、言葉がライトになっていますけど、筆談は労力のいる行動。深く考えて相手に言葉を伝える行為はコミュニケーションを豊穣にしますし、コロナ禍で人に会いづらい今だからこそ、その意識が強くなっていますね。
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――『うたのはじまり』のチャットによる筆談トークショーのシーンの描写もコミュニケーションの本質を問いたいというメッセージなのでしょうか?
河合:齋藤さんは他人とコミュニケーションする方法を熟知しているんです。写真家を始めた理由も「みんなでご飯が食べたかった」から。絵も描きますが、すべては誰かとコミュニケーションを取りたいがためのツールの1つ。僕が撮影している時はそれを表現の方法論としか捉えていませんでしたが、上映がコロナと重なり、通常より規制がかかった状態での発表となったので、作品を上映するだけではなく、たくさんの人に観てもらい感想や意見をいただき、考え続ける行為が制作であって、その根底に誰かとコミュニケーションをしたいという潜在的な気持ちがあることに気が付きました。
――飴屋法水さんによる聖歌隊「CANTUS」のライブイベントに衝撃を受けたんですが、河合監督が実際に感じたことを教えてください。
河合:公演の時点で僕は齋藤さんを知らなくて、イケメンの写真家がいる! というイメージでしたが、公演の最中に彼の境遇が徐々に明らかになっていく内容なんですよね。当時はろう者と聖歌隊を組み合わせた画期的なライブの意図は深い理解には達しませんでした。当初は飴屋さんの公演に対する僕なりの解釈を表現する意味も含めて彼の生活を撮っていましたが、“うた”嫌いだった齋藤さんを撮り続けていくうちに、その考え方が如実に変わっていく様を見て、導入部分としました。
――飴屋さんと斎藤さんのプロレスなど、過激なやりとりも印象に残っています。
河合:飴屋さんが挑戦的にプロレスをしたり、「耳ついてんじゃん。鼓膜がないってこと?」という過激な会話のシーンは自分も映画への導入に悩みましたが、本人に相談すると「本当のことだからそのまま使ってほしい」と。一見、暴力的に見えるかもしれませんが、その後、齋藤さんのファミリーと散歩したり、コミュニケーションをしているシーンから、絶縁とか距離が生まれる行為ではないということも知ってほしいし、そこが重要なんです。
自分と相手が違うことを認め合うのも尊敬だということ。自分と本質が違う人に対しても、疑問をぶつけ合ってしっかりと対話を重ねることで、本当の信頼が生まれる。例えば、ろう者も聴者も互いが異なることを理解し、尊敬してこそ本当のコミュニケーションにつながる。この公演の映像を通して、そうしたことを飴屋さんに教わることができました。
――過剰な同情は当事者の気持ちを蔑ろにする場合もありますよね。結果、論点がずれて、自己正当化するための意見になってしまったり。過激なシーンの導入はそれを理解するためなのでしょうか?
河合:誤解がないように話したいんですが、試写会の後に、障害者をテーマにしたテレビ番組の関係者からは「信じられない」と、介護職の方にも「恐ろしい行為」という意見をいただいたんです。一方でろう者の方々からは「ここまで向き合ってくれていることに感動した」という言葉もいただき、その温度差に驚きました。齋藤さんも、ろう者という理由だけで特別視されることには否定的です。普通に生きてきたわけですから。試写会での意見や感想で自分の感情に大きな変化がありました。
――目が見えないとか、耳が聴こえないということが特別視されてしまうような社会には疑問もありますし、『うたのはじまり』はその問題を提起している映画だとも思います。
河合:昔から人間のあり方として正常とか異常っていう境界を疑問に思っていたんですよね。僕は幼少期からずっと「変な人だよね」って言われることが多かったのでより意識的になったのかも。その障壁みたいな感覚がコロナによって、最近さらに分断を生んだと思います。人間ドラマ染みた取り繕いが限界に到達して破綻した。本質的なことは、そんなにたいそうなものではないということを訴えたかったんです。
――風呂場で樹さんが最初に声を発したシーンは、齋藤さん自身が声をポジティブに捉えているようで印象に残っていますが、それぞれのシチュエーションを想定しながら撮影したんですか?
河合:齋藤さんの家族とは一緒に旅行にも行ったし、鹿の解体を見学したこともあります。とにかく行動すべてが魅力的な人なので、僕から出来事を仕掛けたり計画的にしようとは思わないんですね。強度があるシーンをまとめていたところ“うた”にたどり着いたというのが正直なところです。風呂場のシーンも日常に密着していた時に偶然、樹くんが声を発したタイミングだっただけ。齋藤さんには聞こえてないから、あれが第一声かはわからないですけどね。
――ドキュメンタリー作品は映像を時系列に沿って起承転結にまとめます。河合監督の作品はいずれも時系列は無関係なので極めて映画的な作りですよね。そこに人との会話や関係性などがピックアップされている。もちろんドキュメンタリスティックではあると思いますが。
河合:僕はドキュメンタリーとは思っていなくて、最近は作品をそう評価いただくことも多いので、少し感じる程度なんです。もともと人間が好きで、ある人を被写体にしたいから、そのための脚本を書いたりしていたような、人を追っかけたいタイプ。良かったのは学術的に映画を学んでいないことですね。型もないし亜流。世の中で求められる仕事って型にはめていく作業の場合も多いですよね。それを教わっていないのでやりようがないんです。食いっぱぐれる可能性を感じたりしますけどね(笑)。
極論、人と接する時のツールが変わればなんでもいいのかもしれないですね。職業作家の方々から怒られるかもしれませんが、僕はカメラに対する興味がそこまでありません。その意味で作品に対するモチベーションが人生で変わっていった作家も多いのではないでしょうか。
――ポストコロナにおいてのコミュニケーションはどう変化すると思いますか?
河合:僕は自分が撮影してきた対象や空間が配信になることに、現時点では違和感を感じています。これから何かひらめくかもしれませんが。撮影する時にも自分なりの葛藤があって、この葛藤があるから映像を作り続けられる。例えば、飴屋さんとか古川(日出男)さん、七尾(旅人)さんの演奏も映像に収められないんですよ。全くの別物になってしまう。今、話している空気もそうですけどね。
矛盾を抱えていますが、その矛盾と葛藤して撮影することに意味がある。七尾さんも「兵士A」に扮した時の葛藤を経て作品にしていますし、その覚悟の表し方。当たり前のようにパッケージされた配信が大量発生しているのは由々しき問題だと思います。当時僕がのめり込んだシーンの熱量はアーティストとお客さんの会話の積み重ねで生まれるものだし、それがなかったことになってしまうことも危惧しています。
今回、撮影場所をWWWに指定したのも、パッケージ化の予定のなかった、WWWで行われた「兵士A」を多くのお客さんの反応と自分が作品化する必然性で映像化したり、他にも生の現場だからこそ生まれるたくさんの思い出があったから。昔から通っていた場所だし、ミュージシャンにも愛されている、その空気感を大切にしたいんです。新型コロナウイルスのパンデミックから1年が経ち、ふわっとやり通せているような感覚を持っている人も多いかもしれませんが、全く別物になっています。
――次回作の構想はありますか?
河合:今はなかなか自分から撮影する機会を設けることができないので、そこに対する自分の葛藤を表現するしかないです。追いかけている被写体はたくさんありますが、自分にとって必然性のある作品にしたいですね。コロナ禍で具体的には見えませんが、いずれ形にしたい。考えすぎると賛否両論型の作品になってしまうんでしょうけど、その尺度は経験していかなければわからないですからね。