前世の記憶が傷を癒す フランスで注目を浴びる”催眠療法”を療法士と体験者3人が語る

「日常に飲み込まれて、どれが傷なのかわからなくなっちゃうんだ。でもそれはそこにある。傷というのはそういうものなんだ。これといって取り出して見せることのできるものじゃないし、見せることのできるものは、そんなの大した傷じゃない」。村上春樹の「ダンス・ダンス・ダンス」の一文だ。視覚化することのできない心の傷やトラウマ、悲しみを抱えていない人はいない、無自覚であったとしても。パンデミックによるステイホーム期間中、より良い未来を築くために過去を整理しようと試みた人も多いだろう。各々が抱える傷から自身を解放する方法として今、フランスでは“催眠療法(ヒプノセラピー)”が注目を浴びている。“催眠”と聞くと手品もしくは悪徳なセラピーの一種という懐疑的な印象を持つかもしれないが、欧米では脳科学や認知行動学による効果の証明がされたことにより医療機関で治療法として認可されている。その歴史は古く、ドイツの医師によって18世紀に考案され、エリート向けの魅惑的な治療法として誕生した。20世紀に欧米の精神科医や心理学者によって進化を遂げ、手術の際の麻酔の補助、出産時の産痛緩和、精神治療の手段として活用されるようになった。

 「催眠療法は病状を治療することを目的としていません、その過程を促進する補完的な理学療法です」と説明するのは、仏催眠療法士連合の会員でありパリにクリニックを持つ催眠療法士のムリエル・マムコ。「患者が精神的、感情的、身体的な健康上の問題を解決するために必要なリソースを“患者自身”で引き出せるようにすることが目的です」。彼女が繰り返し「治療ではない」と言うのは、医師の技術によって外側からのアプローチで治癒するのではなく、“自分自身の力を開拓”することで問題を解決へと向かわせるのが催眠療法だからだ。心理的問題の治療を目的とする心理療法との違いについてマムコに聞いた。「催眠療法では患者の悩みや心配、過去について聞くことはありません。心理療法のように多くの話を聞き、その理由と解決方法を探るという過程を経ず、身体の感覚に直接働きかけるのです」。

 マムコのクリニックを訪れる患者の年齢層は幅広いが、主に20〜30代の若年層だという。「この世代は自尊心の欠如、失恋や死別の悲しみ、依存症からの解放を目的とする人が多いです。行動レベルでは喫煙、不眠症、怒りっぽさ、集中力の欠如、人前で顔を赤らめること。思考レベルではつらい過去がフラッシュバックする、ストレスを感じる。感情レベルでは悲しみ、憂鬱、恐怖などがあり、セッションを通して患者自ら克服します。子どもの場合、悪夢を見るのをやめ、暗闇への恐怖心をなくし、10代の多くは試験への恐れを克服した実例があります」。

 初回のセッションが1時間半、2回目以降は1時間。マムコは最初に達成したい目的だけを尋ね、催眠へと誘う。「患者の意識状態を切り替えて、顕在意識ではなく潜在意識に話しかけます。この状態は変性意識状態と呼ばれ、入眠直前の覚醒と睡眠の中間状態と同等で、無意識的に誰もが経験しています。ここにいると同時に他の場所にいて、ある意味での解離状態にあるのです。論理的・合理的な心と直感的・創造的な心の中間です。催眠療法士は患者の警戒心を解きほぐし、この催眠状態を誘発します。私は神経療法と鍼治療の免許も保有しているため、それらを総合的に使って、話しかけたり五感を刺激したりして患者をリラックスさせ、身体と呼吸に集中させます。催眠状態に入ったら、いくつかの提案や比喩を使って、患者固有の自己回復能力を活性化させる段階へと進みます。この能力は私達全員が必ず持っています」。1回のセッションで克服する患者もいれば、3〜5回のセッションで段階的に改善するケースもあるという。「潜在意識が物事を再認識し、顕在部分に望む通りの変更を与えるのにどれくらいの時間を要するのか事前に知ることはできません。1人ひとりに独自性があり、1人ひとりが自分の鍵を持っています。前述したように、心理療法では療法士とのコミュニケーションにより顕在意識の変更を試みますが、催眠療法の場合、患者はセッション中ほとんどの時間目を閉じてリラックス状態を保持し、言葉を発することは少ないです」。

 パリでデジタルコンテンツ・マネージャーとして働くマキシム・ロセンフェルドは、軽度の摂食障害を克服するために催眠療法のセッションを受けたことがあるという。「障害がストレス、自尊心の欠如、ライフスタイルを原因とすることはわかっていました。従来の、制御的な食事療法はあまり役に立たないし、効果があったとしても数ヵ月かかるので、効率的な方法を求めて催眠療法を選びました」。実際は40分だが体感では10分に感じたというセッションを終えて、しばらくの間摂食障害は改善されたという。特に、彼が求めていた迅速な有効性を実感したようだ。

 コペンハーゲンに拠点を置くアメリカ人フォトグラファー、アダム・カッツ・シンディングも2019年にパリで催眠療法を経験した。「知人に“前世療法としての催眠術”について聞き、好奇心からセッションを受けてみました。私の場合は特定の悩みがあったわけではなく、好奇心からです」。催眠療法は別の名で前世療法や退行催眠療法とも呼ばれ、催眠により本人の出産以前(前世)の記憶を思い出すことにより現在抱えている問題を克服する療法としても知られている。(これは、人間が永続的な魂を持ち、生命を繰り返すという輪廻転生の思想を前提としている。)輪廻転生を信じるか否かは個々の思想によるとしても、アダムは非日常的な体験について話を聞かせてくれた。「セッションが始まり、私は私の身体から解離し、地球を離れ、宇宙へと行く感覚を覚えました。やがて別の男性の身体へと入っていったのです。催眠療法士は私をこの男性として、人生を振り返るよう導きました。目が覚めた時私は泣いていましたが、それが涙ではないことを確信していました。そして心の中に、夕陽の色を感じることができたのです。分かっています、この話がクレイジーだと受け取られることを。私もセッションを受けるまで前世療法について懐疑的でしたから。しかし、これは私の人生において最も興味深い経験の一つとなっています」。

 前世の記憶を呼び起こすことで心身的障害を改善するという療法は、精神科と心理学の分野では80年代から知られるようになった。「顕在意識と潜在意識を結ぶことで“永久記憶”を回想できる」とマムコも説明する。この前世療法に興味を持ち、セッションを受けたというバイヤーのアレクサンドラ・ティストゥネ。彼女が育ったのは、近代精神分析学の創始者であり19世紀に最も早く潜在意識の研究を行った精神科医ジークムント・フロイトがいたオーストリア、ウィーンだ。アレクサンドラは10代の頃、心理学の授業で催眠療法について知り、その後に前世療法を専門とするアメリカの精神科医で催眠療法士のブライアン・L・ワイスの著書「前世療法 米国精神科医が体験した輪廻転生の神秘(原題:Many Lives  Many Masters)」を読んで好奇心を抱いたという。「当時の私は演劇学校で演技について学んでいました。個人的な痛みを経験し理解することが、演技を学ぶ過程の1つになり得ると信じており、学術的な“体験の芸術”にも基づいています。そのため、私も心の傷を知覚し、演技のスキルとして役立てたいと思い、催眠療法を受けることにしました」。結果的に、彼女は催眠療法士が導くままに潜在意識、もしくは更に深い部分にまで到達するような体験をしたという。非常に個人的な体験であるが、その時の感覚を語ってくれた。「セッションの最後のパートで目を覚ますと、身体が非常に重く、心は大きく目覚め、前向きで平和で落ち着いた感覚を得ました。体験を通して、催眠療法は最も深い内なる自己とつながり、最も深い感情を理解するための素晴らしい方法だと思いました」。

 これらの体験を神話的な幻想やオカルト論と捉えるか、神秘に満ちた真実と捉えるかは自由だ。自分の体験や感覚を信じられるのは自分だけであって、それで十分なのだから。そしてそれが他者に対して攻撃的ではない限り、私達は何を信じたっていいはずだ。「内なる資質と再統合し、自尊心を取り戻し、自分のありのままを愛し、人生に大きな自信を持ち、生きる喜びを取り戻すために催眠療法が存在する」とマムコは締めくくった。

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author:

井上エリ

1989年大阪府出身、パリ在住ジャーナリスト。12歳の時に母親と行ったヨーロッパ旅行で海外生活に憧れを抱き、武庫川女子大学卒業後に渡米。ニューヨークでファッションジャーナリスト、コーディネーターとして経験を積む。ファッションに携わるほどにヨーロッパの服飾文化や歴史に強く惹かれ、2016年から拠点をパリに移す。現在は各都市のコレクション取材やデザイナーのインタビューの他、ライフスタイルやカルチャー、政治に関する執筆を手掛ける。

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