「ネオ漫画」を描き続ける横山裕一が見る現代美術と漫画の関係

東洋とも西洋ともつかないキャラクター描写や“ドドドド”“ゴロゴロ”など、疾走感のあるオノマトペ、等間隔の時間描写といった「ネオ漫画」作品で知られる横山裕一。ひたすら土木作業が続く『ニュー土木』や目的不明の鉄道旅行を描いた『トラベル』など、動きと喧騒に満ちたコマの中で過ぎ去る時間にフォーカスした、不思議な世界観の漫画に圧倒された読者も少なくないはずだ。

横山は、油絵画家から漫画家に転身した日本人アーティストとして、ポップカルチャーに造詣の深いフランスの専門誌『リベラシオン』でも特集され、パリのアンヌ・バロー・ギャラリーやパレ・ド・トーキョー、チューリッヒのハウス・コンストルクティヴ美術館でも展覧会を開催するなど、世界的な注目を集めた。作家としての代名詞でもある「ネオ漫画」は、漫画の固定観念を塗り替えた作品として高い評価を得ているが、当初の狙いとは全く異なるものだったという。

1枚の絵ではなく場面の連続を描きたかった

――現代美術から漫画の世界に進まれましたが、どのように今のスタイルが完成したんでしょうか?

横山裕一(以下、横山):ムサビの油絵学科出身で、当時はニューペインティングが流行っていましてね。大作を描かなきゃいけないムードもあって、現代美術に憧れていましたけど、お金がなくて油絵の具が買えないから、ベニヤ板とペンキで作品を作っていました。何年か制作を続けて、コンクールにも応募したけど、ことごとく落ちましてね。板絵を諦めたタイミングで「イラストレーション」という雑誌のコンクールに合格したんですよ。それからイラストの仕事が増え始めて、徐々に生活できるようになった。ですので、現代美術は一度諦めています。完全なる敗北ですよね。

――イラストレーターから漫画家への道はどんなきっかけだったんでしょうか?

横山:イラストの営業ついでに漫画を描くようになったからですね。それに、当時は1枚の絵を描くことに虚しさというか物足りなさを感じていて。人物画や造形画も含めて1枚の表現でなくて、その後どうなるかを描いてみたくなったんですよ。ただ、ストーリーはどうでもよくて、場面を連続して表現するようなイラストを描くのが心地良かった。そこで、漫画です。

――横山さんの作品に明確なストーリーが存在しないのも美術的なアプローチなんでしょうか?

横山:そう言えばかっこいいですけど、単純に心地良かったからですね。

――具体的に1枚の絵を描くことの、どんなところに虚しさや物足りなさを感じましたか?

横山:人に無視されていないというような安心感が欲しかったですね。世の中にエントリーしているような感覚。著名な画家でもない限り、絵を描いて個展を開いてもお客さんは限られる。人数を気にしたというか、その広がりを気にして。漫画だとそこまで売れていなくても5、6000人の人が読むわけですよ。

現代美術はそこをあまり気にしていないところが良さでもあるんですけど。業界の人には有名でも、世間的には知られていない作家もいますよね。鑑賞者が理解できないということは、そのレベルが問われているんでしょうけど、やや閉鎖的で虚しさを感じていました。そんなことは気にせず作品に没頭できる人がファインアートを続けていけるんだと思います。僕は落ち着いて自分の心と向き合って仕事をすることはできないし、安心できないんです。

――鑑賞者の見識を問われるような感覚ですね。

横山:そうです。現代美術は鑑賞するにも努力が必要というか。抽象絵画も理解した時の感動は言葉にしがたいですが、自分が近づかなければいけないですよね。日本画だとその両方がある。レベルの高い鑑賞者にも、そうでない人にも理解できるおもしろさが隠れているんです。平山郁夫さんの作品にも言えることです。父は美術の素養がありませんでしたが、平山さんの絵は気に入っていました。

――確かにポップさや良い意味での入りやすさは重要だと思います。

横山:日本画はあくまで一例ですけど。現代美術って未知の大陸を見つけて、最初に入植する人達のクールな感覚に近いですよ。発見した時の興奮や喜び、尊敬もされるし、かっこいい。でも、今はそういう作品は少ないと感じますね。

特徴的な擬音は幼少期に読んだ漫画の影響

――影響を受けた作家はいますか?

横山:学生時代に川俣正さんの『People’s Garden』に衝撃を受けました。学校ではアカデミックな絵を勉強していたんですけど、このままじゃいけないと瞬間に感じました。今でも影響を受けているし、あの盤石な強さを超えたい。そのために漫画を続けていると言ってもいいくらいですよ。多分、絵画では超えられなかったでしょうね。それに、昔の美術の主役ってフェルメールの絵という時代もありましたけど、今美術の主役は絵の人なのか? という疑問も湧きます。

――今の美術の主役は視覚芸術ではないということでしょうか?

横山:ゲームクリエイターとかそういう職種のような気もするんです。恐竜の子孫が翼のディテールや骨格を調べると爬虫類ではなく、鳥だったという研究結果があるように、フェルメールの絵という美術世界を受け継いでいる子孫は、絵を描いていない可能性もあるわけじゃないですか。言葉も音もそうですけど、時代性も含めて、受け手側の印象でいくらでも変わってしまいますから。その点、擬音語には普遍性があるからクールなんですよ。

――擬音語は横山さんの作品を象徴するものですし、昨年、発売した『燃える音』は“ドドドド”“モモモ”“ビヨヨヨ”など疾走感のある擬音語が立体になって炎となる、まさに“燃える音”な作品だったのが印象に残っています。

横山:そもそも漫画に興味がないままこの世界に入ったので、自然にそうなったとしか言いようがないんですけどね。子どもの頃は『ドカベン』とかを読んでいましたけど、野球漫画って試合の描写が続きますから、バットにボールが当たる音とか歓声、“カーン”とか“ワーワー”とか擬音語が目立つでしょう。僕の擬音はあの真似です。幼少期の曖昧な記憶の影響なんじゃないですかね。あと、画面を埋めるのにも、時間調整をするのにも便利。僕の作品は一律で、次のコマから2秒と決めたら2秒の連続で続いていくように、コマの秒数をそろえているんですけど、時間の調整役として擬音語が役立つんです。物語の説明にもなりますし。

昔、ドイツ人からインタビューを受けた時に「擬音語とは何だ? 君が考えたのか?」と聞かれて「日本人はみんなやってるよ」と返したら、原始的すぎると言われましてね。「このやり方は非合理的で効率が悪い」とも評価されました。だから、未だにドイツではウケていないのかもしれません。ヨーロッパでは、ドイツ語圏の国でだけ1度も単行本が出版されていないんです。

――一方で『トラベル』には擬音語が一切登場しません。

横山:だから、描くのが大変なんですよ(笑)。面積も埋まらないし、細かい手の描写を描きたくないと思ったら、擬音語で埋められる。ドイツ人の評価は逆でしたけど、擬音語ってすごく合理的ですけどね。みんな普通に使っているし、僕の場合は単に定規で描いているから見え方が違うのかもしれませんけど。

時代や場所が限定されるのを避ける描写

――描線はすべて定規で描いていると、あるインタビューで読みました。

横山:最近は違いますけど、ほとんどそうですね。フリーハンドを信用していないというか。良くも悪くも芸術って人の手の温かみとかタッチを重視することが多いですけど、少しそれが気持ち悪くて。僕は浮世絵とか水墨画の人間の体臭を消そうとしていると感じられるところが好きなんです。最初は全く直線が書けないという技術的な理由でテンプレとか定規で描き始めましたけど、体臭が抜けてクールな線になっていくんですよ。盆栽と一緒ですね。本当はまっすぐ伸びていくはずの枝を糸や紐で固定することでいびつな形に仕上げる。人為的に作る、自然なのか人工なのかの境界が曖昧になっていく感覚ですね。伸び伸びしていなくて、制約の中で表現している感じ。

――フリーハンドだと既定路線を逸脱した線も描けるでしょうし、既視感のない作品にもつながるのではないかと思うのですが。

横山:絵画の場合は絶対にその方がおもしろいですよ。でも、日本画ってフォーマット化されていて自由がない部分がありますから、描く側も合わせなければいけない。僕はそこに開放感があると感じますし、漫画のキャラクターやストーリーも制約があると描きやすいものですよ。

――Twitterで「登場人物が固定メンバーの漫画を描きたい」という主旨の投稿をされていました。横山さんの漫画に登場するキャラクターはどの作品も風貌や衣服も異形で、国籍も不明です。

横山:昔のヨーロッパの絵画には、直接テーマに関係ないようなキャラクターの描写も多いじゃないですか? 例えばドラクロワのフランス革命の裸婦像にも違和感を覚えますけど、作品を普遍的なものにしたい気持ちと時代や場所を限定されるのを避けているからでしょうね。服の細かな描写などは時代性という意味を持たせてしまいますから。僕も地名や携帯電話とかは描いていませんし、東洋か西洋なのかを極力感じさせないようにしています。間違っても有名人は出てこないです。あまり現在のことを相手にしたくないんですよ。人間の感情とかもですね。

――人間の感情を題材にしたくない理由は何でしょうか?

横山:流行のほとんどは人間の感情によるものですし、テレビドラマなどは喜怒哀楽でいう“怒”と“哀”みたいな負の感情が目につきます。人の感情表現って世の中にあふれていますけど、それは自分の人生の中で消化すればいいわけで、作品の役割なのか? という疑問しかないです。

――最初に話していた、作品と評価をすべて鑑賞者に委ねるというクールな関係性が一貫していますね。

横山:悪く言えば無責任なんですよ。自分のしたいことのみを作品にしているだけですから。僕がおもしろいと感じるのは、ヘミングウェイとか井伏鱒二の小説のように感情のない言葉や場面だけを淡々と続ける表現。実に現代的でクールですよね。

漫画のセオリーから逸脱した表現は漫画の書き方を知らなかったから

――『燃える音』は「現代詩を模倣し、物語性を極力なくした実験漫画」と表現されていましたが、セリフが特別な意味を持たない作風において言葉はどんな役割を果たすんでしょうか?

横山:『燃える音』の『出現』と『30世紀』は、前のセリフを受けて次に続いていくようにストーリーっぽくしているんです。でも、そのつながりには意味も関連性もない。散文詩のような、一見つながりがあるようで、実は何も語っていないというイメージです。ただ、あとで読み返したくなるものなんですよね。小説は一度読んだら、その後30年は読み返しませんけど、現代詩は同じ1冊を何度も読み返す時がある。完全に受け手に委ねている勝手さも好きですね。

――セリフはすべて横書きですが、海外出版を前提としていたからでしょうか。 横書きのセリフに違和感を覚えたことはありますか?

横山:普通の漫画は縦書きでセリフは明朝体とか、すべてあとで知ったことです。友達に打ち込んでもらったセリフが横書きだったというだけなんですよ。原稿サイズも間違っていたみたいですし……でも、どうでもいい。フォーマットを気にしない分、純粋な漫画ファンにはウケないですけどね。予備校時代の同級生の古屋兎丸は、昔から漫画が好きでした。そういうカルチャーの暖簾分けをしていると、ファンにも迎え入れられるんでしょうけど、僕にはそれがなくて。

――なるほど……でも、横山さんの作品の中で『ルーム』は一番漫画らしいというか、初めてのギャグ漫画でした。横山さんが考えるギャグ漫画の定義とは何でしょうか?

横山:ギャグ漫画は、子どもの頃に読んでいた『天才バカボン』とか『マカロニほうれん荘』が原体験です。『天才バカボン』は、今読んでも完成度が高い気がします。『マカロニほうれん荘』は楽しかったけど、今の時代に通用するギャグなのかは疑問ですね。変なヘヴィメタルのキャラクターも、当時は驚異の4番バッターでしたけど。その点でギャグ漫画は時代によって古びてしまう危険性がありますよ。積極的に作らない方が良いと思いつつ、一度は描いてみたい。ギャグ漫画って今の言葉を使えば成立しますけど、それを封じた場合は相当大変なはずですよね。

ちなみに実は『ルーム』が1番好きな作品で、他の漫画は見返さないけど『ルーム』と『燃える音』は今でもたまに読み返しています。『ルーム』は単純に笑える。本当に滑稽という理由だけですから、他の人にとってはつまらないかもしれませんけどね。

――漫画の他にカラフルなペインティングやドローイングなど、現代美術の分野でも評価が高いですが、現代美術を専攻していて漫画に役立ったと感じる部分はありますか?

横山:絵を描く上での技術的な部分ですかね。僕のカラー作品はすべて北斎の真似なので誰でも描けますよ。北斎の版画のように色をはめているだけで、福笑いの世界。全体的に強い色を使わず、小さなポイントで彩度の高い色を置くという条件を加えると、北斎みたいになるわけです。なので、色はなるべく淡く、弱くってね。

何年かに1度、カラー作品のオーダーがありますけど、本当は描くべきじゃないんです。昔のスクリーントーンが絶版になっていたり、障壁も多いですから。あらゆる言い訳をして逃げようとするけど、捕まってしまって、描くこともあります。ちょうど今描いてる最中ですが……。

――最後に今後の活動について教えていただけますか?

横山:具体的には、3月20日に丸亀市の猪熊弦一郎現代美術館で顔に関するグループ展があります。あと、漫画は自分が描くべきだと思っていますよ。狂いなく予定通りに描くという義務だけが全てですが、最初のアイデアと完成の瞬間は楽しいです。その間はずっと辛さとつまんなさが続くんですけどね。

横山裕一
武蔵野美術大学油絵学科を卒業、1995年から漫画家としてデビューし、これまで『ニュー土木』(イースト・プレス、2004)、『トラベル』(イースト・プレス、2006)、『アウトドアー』(講談社、2009)、『カラー土木』(Picturebox/NanzukaUnderground、2011)、『PLAZA』(888ブックス、2019)など多数の漫画本を出版している。漫画のみならずカラフルなペインティングやドローイングのファンも多く、これまでに、「横山裕一×シュルレアリスム」(宮崎県立美術館、2014)、「YÛICHI YOKOYAMA : WANDERING THROUGH MAPS, UN VOYAGE A TRAVERS LES CARTES」(PAVILLON BLANC、コロミエ、フランス、2014)、「世界が妙だ!立石大河亞+横山裕一の漫画と絵画」(広島市現代美術館、2016)、「横山裕一展」(NANZUKA、2020)など国内外の美術館やギャラリーで展覧会を開催している。

■「まみえる 千変万化な顔たち」
会期:3月20日〜6月6日
場所:丸亀市猪熊弦一郎現代美術館
住所:香川県丸亀市浜町80-1
時間:10:00〜18:00(入館は17:30まで)
休日:月曜日(5月3日は開館)、5月6日
入場料:¥950

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author:

芦澤純

1981年生まれ。大学卒業後、編集プロダクションで出版社のカルチャーコンテンツやファッションカタログの制作に従事。数年の海外放浪の後、2011年にINFASパブリケーションズに入社。2015年に復刊したカルチャー誌「スタジオ・ボイス」ではマネジングエディターとしてVol.406「YOUTH OF TODAY」~Vol.410「VS」までを担当。その後、「WWDジャパン」「WWD JAPAN.com」のシニアエディターとして主にメンズコレクションを担当し、ロンドンをはじめ、ピッティやミラノ、パリなどの海外コレクションを取材した。2020年7月から「TOKION」エディトリアルディレクター。

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