日本の文化の中心であると同時に、あらゆる創作物のテーマにもなってきた、東京。発展と崩壊、家族の在り方、部外者としての疎外感、そして恋――さまざまな物語を見せてくれる東京に、われわれは過ぎ去った思い出を重ね、なりたかった自分を見出している。
本連載では東京在住のライター・絶対に終電を逃さない女が、東京を舞台にしたラブストーリーを取り上げ、個人的なエピソードなどを交えつつ独自の視点から感想をつづる。初回は有村架純と菅田将暉主演の映画『花束みたいな恋をした』。主人公2人のすれ違いの様子から、あり得たかもしれない未来を考える。
「あっちの席に神がいます」
「犬が好きな人です。あと立ち食いそば」
映画『花束みたいな恋をした』を観た人の中で、それが押井守を指しているとわかった人がどのくらいいたのだろうか。
明大前駅で同時に終電を逃したことで出会った主人公の山音麦(菅田将暉)と八谷絹(有村架純)は、同じく終電を逃して改札前で居合わせたアラサーくらいの男女と、4人で深夜営業のカフェに入る。そこでふと奥の方のテーブルに目をやった麦は何かに気付いた様子で、「あっちの席に神がいます」と小声で伝える。3人ともさりげなく見て確認するが、絹を除く2人は明らかに誰なのかわかっていない反応を示す。
麦は「犬が好きな人です。あと立ち食いそば」とヒントを与えるが、
「有名な人なの?」
「え、映画とか観ないんですか?」
「観るよ。結構マニアックって言われるけどね」
「どんな映画?」
「『ショーシャンクの空に』っていうのとか」
と続いていく会話に、内心であきれる。
その後、店を出て一旦解散してから麦に声をかけた絹の「押井守、いましたね」というセリフで、私はようやく「あ、押井守だったんだ」と、謎が解けたのだった。
押井守本人が出演しているため、わかる人はすぐにわかるのだろうが、私は顔までは知らなかったし、ましてや犬と立ち食いそばが好きなことなど知るはずもない。
もしも私が絹の立場だったら、いくら顔が菅田将暉だろうと引いていたと思う。相手が押井守を認知しているような人かわからない、つまり自分と共通言語を持っているかわからない初対面の人に対して、普通なら「あ、押井守がいる! でもこの人たち押井守知ってるかな?」と考えそうなところを、いきなり「神がいます」と告げ、その後もわかりづらいヒントを与えて楽しんでいるのだ。
しかも「映画とか観ないんですか?」と映画を観ないことが珍しいことかのような聞き方をしているが、本当にそう思っているのだろうか。ここでは『ショーシャンクの空に』が暗にメジャーな作品として扱われているが、世間一般的には『ショーシャンクの空に』レベルで「結構マニアックって言われ」てもおかしくはない。さらに、麦のセリフにはある程度映画を観る人なら押井守の顔と犬や立ち食いそばが好きなことを知っているという前提を含んでいるが、押井守の作品を観たことがあって名前は知っているとしても、顔や好きなものまで知っている人は少ないのではないか。
観ていてそんなツッコミがあふれ出てきてしまった。
現実でこのような振る舞いをすると、いわゆるマウンティングと捉えられてしまいがちだが、私はそうとは言い切れないと思っている。単に世の中の平均的な趣味や知識レベルを把握できていない世間知らずだったり、相手と前提知識を共有しているかを意識しながら会話することが苦手だったりと、人それぞれ事情はあるからだ。
麦はというと、絹と出会う以前、大学の同級生達とカラオケに行くシーンでは、当時の流行であるSEKAI NO OWARIの「RPG」で盛り上がる周囲と趣味の合わない疎外感がそれとなく描かれており、新潟の一般家庭の出身であることからも、平均的な環境の範囲で生きてきたと推測でき、少なくともそこまで世間知らずだとは思えない。おそらく、相手が自分と同じ知識を持っているという無意識の前提と、多少の選民意識から来ている気がする。
とはいえ、麦のバックグラウンドや精神構造についてはあまり描かれていないので、安易に麦をマウンティング野郎だと断罪するつもりはない。
するつもりはないのだが、なんにせよ、この手の言動をしていると距離を置かれたり敵を作ったりするし誰も得をしないからできるだけやめたほうがいいよ、と言いたくなってしまうのだった。
「きっかけは押井守だった」というモノローグの通り、ここから2人は好きな作家や音楽、お笑い芸人や世間に対して抱いている違和感のポイントなどが似ていることがわかって意気投合し、花束みたいな恋が始まるわけだが、ここで注目したいのは、先ほどのカフェのシーンで絹のセリフは1つもないということだ。
絹は押井守の存在に気付いていたものの店では何も言わず、わざわざ麦と2人きりになるのを待ってから、自身もファンであることを伝える。絹の「好き嫌いは別として押井守を認知していることは広く一般常識であるべきです」というセリフは、カフェで押井守を知らない人に対して口にしていたら間違いなく印象が悪いが、お互いファンであることがわかっている2人きりの状況ではなんの問題もない。
おそらく絹は麦と違って、少なくとも、相手がカルチャーの共通言語を持っているかを探りながら、マウンティングだと捉えられないように配慮するタイプだと思われる。非常に似ている2人として描かれているようで、この点では大きな差があるのだ。
麦のこの手の言動は、他にも見られる。特に、調布駅から徒歩30分の多摩川沿いのマンションで同棲を始めた2人の部屋を、絹の両親が訪ねてくるシーン。
絹の父に「ワンオクとかは聴かないの?」と聞かれた麦は、「あ、聴けます」と答える。積極的に聴くことはないが一応チェックはしているし聴くのが苦痛なレベルではない、という上から目線。素直に「聴かないですね」と言うほうがまだマシだったのではないか。同棲している彼女の父親に対してもこれなのだから、無自覚にやっていることがうかがえる。
麦のこうした振る舞いはこれ以降、仕事に追われて小説や映画に親しむ余裕がなくなったことで鳴りを潜め、2人の恋も枯れていく。終盤、ファミレスで別れ話をしようと決意したはずの麦はとっさにプロポーズをする。
「今家族になったら、俺と絹ちゃん、上手くいくと思う。子供作ってさ、パパって呼んで、ママって呼んで。俺、想像できるもん。三人とか四人で手繋いで多摩川歩こうよ。ベビーカー押して高島屋行こうよ。ワンボックス買って、キャンプ行って、ディズニーランド行って。」
輝いていたはずの恋愛が色あせていって終わるまでの過程を、これほど美しくもリアルに描かれたら当然泣けるのだが、しれっと差し込まれた「ディズニーランド」の違和感は見逃せなかった。
自己啓発本やビジネス書を読み、空き時間にはパズドラをする“普通”のサラリーマンに変わり果てた麦が語るのは、いわゆる「平凡な家庭を築く幸せ」といったところだろう。それが尊いのはわかるのだが、ディズニーランドとは、2人が馴染めなかったはずの、メインストリームの象徴のようなものなのではないか。子どもが行きたがって連れていくことはあり得るとしても、現時点で絹はディズニーランドに行きたいタイプではないのは明白であり、ここで説得の言葉として使うのは間違っているとしか思えない。
そもそも、それまで子どもの話を全くしたことがないのに、一方的に「子供作ってパパママって呼んで」などと語るのは、絹の意思を無視していると言えるのではないか。
就職してから趣味や価値観は大きく変わった麦だが、目の前の相手が自分と同じような好みや考えを持っているという前提に立ってものを言ってしまうという点では、押井守に遭遇したカフェから最後のファミレスまで、一貫していたのかもしれない。
2人がすれ違い、別れてしまったのは、労働環境をはじめ複合的な要因だったのだろうし、誰も悪くないとも思う。しかし、麦にもう少し絹への想像力と配慮があれば、2人の関係は違ったのではないかという希望を抱いてしまうのだ。