目は口ほどにものをいう。写真は言語ほどに伝達する――スケボーマガジンを通して出会った写真家、デニス・マクグラス

写真はほんとにおしゃべりなシロモノだ。特にスケート写真には、スポンサーのロゴやスポットの環境、スタイルなど、多くの情報が写っている。デニス・マクグラスは、当然、そういった写真を撮ることだってできる。そこに上乗せして、彼しかできないことをやってのけてしまう。私は、20年近くスケートマガジンを編集してきた。その間に、スケートそのものが写っていないページや特集なんぞはいくらでも作ってきた。しかし、本の顔である表紙がヌードだったのは、後にも先にも1回だけだ。それがデニス・マクグラスだった。

スケートボード写真からキャリアをスタート

デニス・マクグラスがプロフェッショナルのフォトグラファーとして活動を始めたのは、1990年代中盤。それは一時人気が減退していたスケートボードが、再び輝きだした時だった。スケートパークから飛び出して、ストリートにあるさまざまなトランディションを、スケートのスポットやセクションにしてしまう時代。まさにスケートボードのすべてがクリエティブだった時代。

デニス・マクグラスは、スケートと坂の街、サンフランシスコのアートスクールに通いだしてわずか1年ほどで、『THRASHER』と双璧のスケートマガジン『SLAP』の表紙を飾った。それから、当時あったスケートシューズブランド「シンプル」の広告を担当。150ドルのチェックをゲット。これが初めて写真でギャランティをもらった仕事だった。「オリンパス」のコンパクトカメラのXAから、「キャノン」5D、そしてレンジ・ファインダー・カメラの「ライカ」M6を持ち歩いて、撮影していった。日本のスケートマガジンにも度々、写真を提供してきた。そして記憶をたどると、2009年の特集だったと思う。その時、彼は「キャノン」5Dのほうじゃなくて、「ライカ」M6で撮ったほうの写真、ポルノのドキュメンタリーを掲載した。ポルノ女優のサイン会。女優の息使いが聞こえてきそうなアングルで撮ったものだった。

デニス・マクグラスの思い出について

忘れられないのが、『Sb Skateboard Journal』でデニス・マクグラスをフューチャーした号。気付いたら、全ページがポルノのドキュメンタリーになっていた。スケートのトリックをしている写真は1枚もなかった。しかし、よく見ると、カメラを回すクルーは「ヴァンズ」のワッフルソールを履いていたり、スケボーTシャツを着ていたりする。それにスケートでずっとプッシュしてきたデニス・マクグラスが撮った写真なんだから、それはスケートにまつわる作品でもあると思った。とても良い特集ができたと確信した。表紙だけは、本屋でスケートマガジンだってわかってもらえるようにスケートのトリック写真にするべきだったかもしれない。でも、そうはいかないのがデニス・マクグラス。そして、こちらもどうせならデニス・マクグラスの好きな写真でイキたい。まずプッシュしてきた写真は、精液まみれのコンドームだった。違う意味で、マガジンがイキそうになってしまう。ようやく決まった表紙は、青空の下のヌードの写真。美しかった。しっくりきた。

後日、それを見たクライアントから、クレームが入った。「これってスケボーマガジンなの? 全然スケボーじゃないじゃん」。そう思われても仕方がない。スケートといっても、いろいろあるけれど、一番は最新のニュートリックが満載なのが望ましい。だから、言い訳はできなかった。ただ、デニス・マクグラスのそれまでと彼が残してきた写真のこと、そしてポルノのドキュメンタリーを撮ることになったストーリーを伝えた。そして、こちらがそういった写真を最高に良いと思っていることと、スケートシーンから発祥した作品としてページにするべきことを話した。
このテキストを読んで、デニス・マクグラスは笑ってくれるだろうか。

飛び道具的スケートマガジン
『BIG BROTHER』とデニス・マクグラス

1990年代に隆盛したストリートスケート。もともと自由でクリエイティブのアイコンだったスケートボードが、一気に跳ねた。それにひと役買ったのが、スケートマガジン『BIG BROTHER』だった。当時、スケートメディアにおいて、3誌が大部数を誇っていた。王道といえば『THRASHER』。ノーカルでリベラルなのが『SLAP』。スケート的マスメディアが『TRANSWORLD SKATEBOARDING』

そこに割って入ったのが『BIG BROTHER』だった。というか、3誌では見ることができない、ストリートのイカすスケートボードのニッチな部分をクローズアップしていた。悪ふざけが過ぎてて、お下劣で、奇想天外なスケートマガジン。それが、とても時代にマッチした。スケートボードに魅せられた人間の本質を掘り起こしたと言ってもいい。アスファルトにたたきつけられ、セキュリティに追いかけ回され、スピード違反でもないのに罰金チケットを切られる。それでもストリートスケートでクリエイションして歓喜している人間の本質。それは良い意味でどこかが狂っている。スケートに正しく酔狂している。それを伝えてくれたのが『BIG BROTHER』であり、キチガ●編集者のデイヴ・カーニー達とともに旅を繰り返し撮影しまくっていたデニス・マクグラスだった。1998年頃から、スタッフフォトグラファーとして『BIG BROTHER』で働くことになったデニス・マクグラス。その3年後には、サンフランシスコからロサンゼルスへ引っ越しをしている。“ブロマンス”(=Bromanceとは、編集者デイヴ・カーニーが誌面上で生み出した四六時中一緒にスケートしている仲間達を指す造語)が指し示すように、ロサンゼルスの街は、デニス・マクグラスの撮影と性に合った。

デニス・マクグラスを好きな理由

派手にバカをやった『BIG BROTHER』は、伝説を残せるだけ残して、MTVの映像部門へ巣立っていく(『ジャッカス』など)。デニス・マクグラスは、『BIG BROTHER』から離れ、親会社のハスラー社のつてでポルノ業界で働くひとびとと仲良くなっていった。数年後、ポルノのビハインドシーンをドキュメンタリースタイルで撮影するようになる。一世を風靡(ふうび)しつつも紙のメディアではなくなってしまった『BIG BROTHER』に未練を残すことはなかった。スケーターであり、悪ふざけしまくれるブロマンスであり、ビッグブラザーであるけれども、デニス・マクグラスはなんといってもフォトグラファーだ。紙に刷って本にすることの素晴らしさを知っている。

現在は、これまで撮り続けてきたロサンゼルスのポルノのドキュメンタリーを1冊の本にまとめている最中だ。写真集のタイトルは『Triple Ecstasy』。これはぜひ見たい。早く手にしたい。こんなことを書いたら、本人はそうじゃないって怒るかもしれない。だけど、私は思う。
デニス・マクグラスは、急行列車を平気で乗り逃してしまえる人間なんだろうと。人は人、自分がやりたいことをわかっている人間。なろうと思えばそこそこのプロスケーターになっていてもおかしくないスキルがあった。『BIG BROTHER』からムービー撮影に比重を置いていけば、今頃はリアリティ番組で名うてのディレクターになっていたかもしれない。だけど、若い頃にカメラを手にした時に、すべてを決めてしまった(かもしれない)。デニス・マクグラスは、写真を撮ることが一番になった。そして、本人も言うように、とにかく撮る時は、スケーターとそのスタイルこそが大切だ。ポルノ女優だって同じ。彼女達の実際の姿、生活、スタイルがフォトジェニックになる。そうやって、ひたすら撮影して、プリントして、本を作るデニス・マクグラスのようなスケーターでフォトグラファーが、私はとても好きだ。そういう人間は、大真面目に悪ふざけするから、とんでもないミラクルを生む。写真集が楽しみでならない。

デニス・マクグラス
「とにかく、今でもこうして写真を撮り続けているのは自分がハッピーになれるからだと思うよ」(デニス・マクグラス)。アメリカの東海岸、ニュージャージー生まれ。13歳の時、南部の街、ヒューストンへ。伝説のスケートビデオ『ボーンズ・ブリゲード・ビデオ・ショー』を観てから、スケートボードに感化される。16歳だった。1994年からはサンフランシスコのアートスクールに入り、スケートボードの写真に傾倒。1996年にはサンフランシスコを代表するスケートマガジンの1つ、『SLAP』の表紙を飾った。それから現在に至るまで、プロフェッショナルフォトグラファーとして活躍している。
Instagram:@dennis_mcgrath

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author:

小澤千一朗

エディター、ライター、ディレクター。2002年に創刊した雑誌『Sb Skateboard Journal』のディレクターを務める。その他、フリーランスとして2018年より『FAT magazine』ディレクターやパンダ本『HELLO PANDA』シリーズの著作など、執筆・制作活動は多岐にわたる。 https://senichiroozawa.com/

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