写真家・濱田晋による「あたりまえのことたちへⅡ」 呼吸のようなプリミティブな行為の延長にある写真

主にポートレイト、ドキュメンタリーの分野で活躍する写真家・濱田晋。濱田は「写真を撮るという行為は、生きる態度そのもの」と言い、特定のモチーフや技法に固執せず、薄晴れのビル群やファミリーレストランの店内、足元に転がる小石など、日常の何気ない風景を切り取る。「あたりまえのことたちへⅡ」は2019年にオン・サンデーズにて開催された「あたりまえのことたちへ」展の第2弾で、「石」と呼ばれる陶器のような立体作品の新作と写真作品を展示した。鑑賞者の記憶に沿うような軽やかさを持つ一方で、撮影する行為を「あたりまえのこと」として続けることで、自らの周辺を更新しようとする、濱田の作家像を若手美術批評家の岩垂なつきが紐解く。

本展「あたりまえのことたちへⅡ」はアクリル加工された写真、モノクロで拡大印刷された風景、小石のような立体物から成っている。自然光の入るギャラリーの中で見るそれらはとても美しいけれど、眺めていると地に足のつかないような不思議な浮遊感に襲われる。通常、特に展示が「個展」という形式の場合、作家の一貫した主義や主張、意図がどこにあるか探すものである。言い換えれば、それは作品における作家の存在ともいえるかもしれない。だがギャラリーを眺めまわしたところで、濱田という作家がどのような視点から世界を見ているのか、捉えることはできない。そしてこの「つかみどころのなさ」は濱田自身にも通ずる印象であった。しかしその漠然とした感覚によって、私達が物事を受け止める時に接し得なかった「何か」をつかむことができるようにも思えた。

写真を撮る行為は濱田にとって「採取」であるという。撮影時は構図や光の加減を調整することはなく、また機材も手持ちのスマートフォンであったり、偶然手にしていた一眼レフであったりとさまざまである。写真作品において、濱田は絵画的にバランスのとれた画面を構築することを目指してはおらず、目の前を流れゆく瞬間瞬間をただひたすらとどめている。それはまるで道端でふと見つけた、特段珍しくもない小石を拾い上げ、収集するようなものである。そこには明確な目的も、意味もなく、撮影は日々の営みとして行うことの一部に過ぎない。ゆえに一連の写真作品は作家の日常と同一にあり、息を吸って吐くようなプリミティブな行為の延長にあるものといえる。

これは「石」とタイトルがつけられた小さな造形物にも共通する。濱田の自宅近くには陶芸教室があり、彼はその場所を時折訪れることで、一連の「石」を制作したという。そして 「石」の形状はその教室の主である人と会話しながら、手遊びのように粘土をこねていく中で偶発的に生まれたものである。それらの造形物は確かに濱田の手で制作されたものではあるけれど、そこには何の意味づけもなく、彼が陶芸教室という場所でひと時を過ごした痕跡として残されたものに過ぎない。私がギャラリーで「石」を目にした時の印象は作家の「排泄物」であった。もちろんこれは皮肉としての表現ではない。そこには「食べる」「動く」「眠る」といった、1人の人間として「あたりまえのこと」の延長にある行為の表れとして、その形があったからである。

また、本展のタイトルが、具体美術協会の一員でもあった堀尾貞治が取り組んだ制作テーマから引用されたものであることも興味深い。兵庫県出身の濱田の実家と堀尾の自宅は偶然にも近く、交流を持っていた時期があったという。堀尾貞治という作家は、目に見えないけれど「あたりまえ」にある「空気」を表現する試みの1つとして、身近な日用品に毎日刷毛で色を塗り重ねていくという行為を続けていた※。創作を日常の営みの一部とし、その行為を蓄積してできた作品の数々は、時に脅迫的なまでのエネルギーを持つ。それは堀尾が作家としての自己の存在を確認し、留めていく作業でもあり、確かな「生」への執着がある。

濱田の作品は日々の「あたりまえ」の営みの中にその創作行為がある点で、堀尾との共通点を見出すことができる。しかし、堀尾が絵具をひたすら塗り重ねることによってとどめていった「自己」の存在は濱田の作品には見られない。写真も、「石」も確かに濱田の手によって生み出されたものではあるけれど、写真はシャッターを切った瞬間から、造形物はその手を離した瞬間から、彼の存在はその場から消え去ってしまう。写真とは作家の「目」であり、目の前の対象をどのように切り取るかという作家の「意図」をその構図、光の加減、色彩のバランス等に反映させ、作品としてのオリジナリティーを獲得する。そして多くの場合どのような写真であっても、ある程度計算された「意図」、言い換えれば作家の存在の片鱗がある。しかし、濱田は何らかの「意図」をもってシャッターを切っていないため、写真からその存在の痕跡をつかむことは困難である。「石」に関しても特定の何かを意図して造形することは避け、「何の意味も持たないもの」を目指したという。本展における濱田の作品は、ふと目に入った風景や出来事を撮影する時、あるいは粘土で立体を形作る時、確かに存在している「自己」の痕跡を留めるものではない。その対象がただ、「その時にそうであった」 という記録なのである。

私達は物事を見る時、対象に対して何らかの定義づけをしたがる。芸術作品であれば 「何を表現しているか」に関心を持ち、その中で写真というメディアを用いているものについていえば、「戦時下でも強く生きる民衆の姿を切り取っている」や「花々の姿に潜むセクシュアリティを引き出している」といった具合に、作家の視点を意識しながらそこに映し出されているものの意味について考察する。しかし、濱田の作品には鑑賞者が捉え得る作家の視点は存在せず、物事のありようそのものが提示されている。夜のファミリーレストラン、 鬱蒼と生い茂った森の駐車場、電車の向かい側の座席に座る人々の足元。写真に映し出されているものは誰もが「どこかで見た風景」に変換可能であり、ある種の普遍性を持つ。これらは作者の不在性すなわち「つかみどころのなさ」によるものであり、意味や定義から解き放たれて、ありようそのものを現出させているのである。

私達が生きているこの世界は、すべてをロジックや言葉によって表すことなど到底できないだろう。しかし本展にただよう濱田の「つかみどころのなさ」によって、私達は物事のありようそのものとしての「何か」に触れることができる。そしてその「何か」とは世界の本質に限りなく近いものではないだろうか。

※Shingo Mitsui / Yuki Teshiba.“Interview 03/Sadaharu Horio”. KOBE ART MARCHÉ. https://www.art-marche.jp/interview/03/(参照 2021-3-18)

濱田晋
1987年兵庫県生まれ。 主にポートレイト・ドキュメンタリー・取材の分野で撮影を行いながら、「わからないあたりまえを採取する」というコンセプトで日常の風景を撮影した写真作品を立体作品やテキストなど、さまざまな表現手段と組み合わせながら制作している。zine制作にも精力的に取り組んでおり、ライフワークである『CHILL!』シリーズは10年以上続いている。
shinhamada.com
Instagram:@shinhamadastudio

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author:

岩垂なつき

1990年長野県松本市生まれ。2015年東京藝術大学大学院美術研究科芸術学専攻修了(美学)。 ヴァンジ彫刻庭園美術館の学芸員を経て、2017年より都内文化施設の広報・企画等に従事。 その傍ら、美術批評執筆・展示企画等を行う。

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