岡田利規と金氏徹平が語る 人とモノの新しい関係性を示す「消しゴム」シリーズに込めた意味

劇作家・岡田利規が主宰する演劇カンパニーチェルフィッチュが美術家・金氏徹平と取り組んできた演劇「消しゴム」シリーズ。今年、シリーズ最新作となる『消しゴム山』の東京公演が開催された。人とモノと空間と時間の新しい関係性を提示し、人間中心主義から脱却することを目的にした「消しゴム」シリーズを通して、人類の未来に向けた挑戦とは何なのか? 岡田と金氏の言葉から紐解く。

俳優と関わりを重点的に考えている中で生まれた「半透明」というキーワード

――お2人が最初にクリエイションをともにされたのは、2011年に上演されたチェルフィッチュの『家電のように解り合えない』だと伺いました。この作品で、金氏さんに舞台美術を依頼された経緯から、まずは伺えますか?

岡田利規(以下、岡田):作品を作る時、舞台美術っていつも困るんです。僕の場合、「こういう設えの具体的なものが欲しい」ということはほとんどないんですね。じゃあ抽象的であればいいのかっていうと、それもあまりにもざっくりしてて。舞台美術に求めるものをまだ言語化できていなくて。話が戻りますけど、いつも困るんです。僕自身が作れるわけではない以上、誰かにお願いする必要があるんですけど、金氏さんとやると困らないんですよね。

金氏徹平(以下、金氏):舞台美術って、『家電のように解り合えない』の時、初めて足を踏み入れる世界だったんです。依頼があった時からチェルフィッチュを観るようになったんですけど、観れば観るほど舞台美術は必要ないなと思うことが多かったんですね。特に昔のチェルフィッチュの作品は、舞台美術がなくても十分成立している。でも、岡田さんは自分でわからないものにも積極的に挑戦しているので、僕は僕で求められていること以外にもおもしろさを見つけられたらと思って取り組んでいるという感じですね。僕が主導した『tower』を含めると、岡田さんと一緒に作品を作るのは4回目なんですけど、岡田さんは同じことをするのを嫌うアーティストなので、毎回チャレンジがあって、それが自分の普段の制作にもフィードバックがあると実感できるので、前向きに挑戦しているというところです。

岡田:金氏さんに言われてその通りと思ったんですけど、そうなんです、僕は基本的に舞台美術っていらないと思ってるんです。でも、本当にないのはつまんないなとも思うんですよね。「必要だからある」じゃなくて、「なくてもできるけど、あってもできる」と考えたい。今、話していて改めて思いましたけど、舞台美術家に対して「あなたがいなくてもプロダクションできる」と言うのってひどいですよね。そこで普通は「じゃあ帰ります」となるんじゃないかと思うんだけど、「それならそれで、全然おもしろいことができます」って言ってもらえると、僕は助かるんです。だから、金氏さんに助けてほしいってことではなくて、僕には作れないレイヤーがあるから、そこをお願いしたいみたいな感じなんですよね。これって言葉だとあんまり違いがわかんないかもしれないけど、全然違うんです。

金氏:その感覚は理解できます。僕は普段いろんなものをコラージュして、いろんな要素を接続することで作品を作っているので、「あってもなくてもいい」という状態はすごく理解できる。余計なものを削ぎ落とせばいいというわけではなくて、いろんなものが接続されていく可能性が提示されている状態は心地がいいものだという認識があるので、そこはポジティブに捉えることができたんですよね。

――チェルフィッチュの舞台美術を金氏さんが担当したり、金氏さんの作品に岡田さんがテキストを寄せられることはこれまでにもありましたけど、『消しゴム山』はチェルフィッチュと金氏さんの連名によるコラボレーション作品です。あの特異な作品を、どんなふうに立ち上げられたのでしょう?

岡田:具体的なレベルで言うと、舞台美術に関しては全然関係なくていいっていうふうにお願いしました。「そこにこれがあると邪魔なんだけど」みたいなことでよくて。何もなくてもできるということは、何かがあって邪魔でもできるということなので。

金氏:今回に関しては、意図的に邪魔をしようとしている部分もありました。視界を遮るようなものや、すごく不安定なものを意識的に並べることで、モノがパフォーマンスとパラレルに存在しているように――パフォーマンスがなくても、そこにものが存在しているように――見えて欲しいなというのは意識したところです。

岡田:『消しゴム山』を作る直接のきっかけとなったのは、2017年に陸前高田の復興工事を観たことなんです。津波の被害を防げるように、もとの地面から10メートル以上も嵩上げする造成工事が行われていたんです。驚異的な速度で人工的に風景が作り替えられる様子を見て、「人間的尺度」に疑問を抱くようになったんですね。

 それとは別のエピソードですが、ある時レストランのテラス席でごはんを食べていたら、テーブルにハエが飛んできたんです。普通だったら多くの人と同じようにハエを手で払いのけるんですけど、その時はなぜかそうしない心の状態に僕はあったんです。僕にとっては食事をする空間だけど、ハエにとってはそうじゃないことがわかってたんです。その心の状態を用いたような舞台を作りたくて『消しゴム山』を作りました。

――そんな感覚を舞台作品を作る時に、具体的にはどんな作業が積み重ねられたんですか?

岡田:それに対して金氏さんが何をやったのか、僕は全くと言っていいぐらいわからないんですけど、僕サイドのことだけ話すと、客に向かって芝居しないということですね。単にお客さんを見て台詞を言わないってだけではなくて、観客に見せるためにパフォーマンスをやるのではなく、上に向かってやると決めたわけです。最初はやる側もポカーンなわけですけど、僕サイドでの最初のとっかかりはそうでした。

金氏:僕のほうでも、岡田さんとは別で考えたこともいろいろあって。たとえば、舞台上に配置するモノの選び方や並べ方の工夫もあるんです。いろんな文脈やルールの中に置かれたモノを、そこから切り離して並べるわけなんですけど、それが新しい物語に取り込まれないように工夫して配置してます。それが結構難しくて、バラバラで抽象的なものでも、つい何かっぽくなってしまう。だからあれは、観客が何かに見立ててしまうような状態を避けてできた配置なんです。具体的に言うと、モノが舞台上だけじゃなくて、荒野に永遠に広がっているうちの一部を切り取ったように見せる。そのためには、視界を遮るようなものがあっても、気にせず配置していく。それで言うと、モニュメントとかクリスマスツリーとか墓石とか御柱とか、そういう類のものが乱立していると、それぞれのテリトリーがむちゃくちゃに混ざって、モノが持っている意味が無効化していくんですよね。

岡田:僕がいまだに知らないこともたくさんあるんですけど、今の話も初めて知りました。モノの意味がゼロになるのは現実的に難しいけど、クリスマスツリーや御柱のように強い意味を帯びているもの同士を並べると、妨害しあってほぼ意味がなくなるというのはおもしろいですね。それって、お互いに迷惑を掛け合っているような状態でもある。

金氏:そういったモノの配置について考えたことを、どう岡田さんが考えていることと接点を持たせていくかって時に、僕が主導してワークショップをやらせてもらったんです。そこでどうやって俳優と関わるかを重点的に考えている中で、「半透明」というキーワードが出てきたんです。

あらゆる形式で展開させたことで見えてきたもの

――「半透明」というキーワードについて、改めてご説明いただけますか。

金氏:もともと川島小鳥という写真家の作品を分析するのに使った言葉なんですけど、彼の写真はアイドル写真だと思うんですね。例えば風景を撮った写真でも、アイドル写真のように見える。それが「半透明」ということなんですけど、川島さんの作品に関してだけ言うと、あの世に片足を突っ込んでいるような状態を作ることによって、アイドルを成立させているんじゃないか、と。その考え方を今回も活用できるんじゃないかと思って、川島さんの作品を分析したことをもとに、俳優にペアになってもらって、1人がモノとの関係を作って――ある意味ではポーズをとって――もう1人が写真を撮るというワークショップをやったんです。自分が半分モノになる、半分ここにいない状態を作ることが、客席とは違うところに向けてパフォーマンスをすることにも繋がっていく。

岡田:どうやって人間中心主義を脱するかという時に、「人とモノの関係がフラットになる」という言葉でも説明できるんですけど、それよりも「半透明」という言葉のほうが有効だったんですね。「半透明」という言葉のほうが具体的なんです。つまり、俳優への指示として「フラットに」というのは具体的じゃない。パフォーマンスする側からすると、半透明になるってことのほうが具体的なんです。半透明という概念を発見できたことで、大変具体的な武器を手に入れられた。「今のは半透明になってる、いいね」「今のはちょっと足りないね」という言葉が、創作の場で共有できるものとして使えたんです。それはほんとに大きいことだったと思います。

――『消しゴム山』という作品には、「人間中心主義からの脱却」というテーマが掲げられています。「消しゴム」シリーズはさまざまな媒体で発表されてきましたが、人間中心的になりがちな演劇という様式で上演するということは、お2人の中でどんな時間になったのでしょう?

岡田:人間の問題をテーマに扱ったテキストって、すでにいっぱいあると言っていいと思うんですけど、その外のものは足りないと思うんです。必要なのはそっちで、そういうものをやりたかったんだけど、具体的にどうやればいいかさっぱりわからなくて。でも、「人間中心じゃない演劇をやる」と、とりあえず風呂敷を広げたんです。その風呂敷が大きいのがまずよかったんですよね。それが空疎なコンセプトのまま最後まで行ってしまうと目も当てられないものになるんですけど、人間中心じゃない演劇とは何なのか、創作のプロセスを通じて見つけられたんですよね。ほとんどマニュアルと言ってもいいぐらい具体的なものを持つことができて、それがとてもよかったなと思ってます。

金氏:劇場で『消しゴム山』をやったあと、その美術館バージョンとして『消しゴム森』をやったんです。その時は2週間ずっと、俳優が何時間もパフォーマンスをやっていたんですけど、コンセプトが俳優の体に染みついていく状態に触発されたところもありましたね。あと、コロナの状況でツアーが延期になったことで『消しゴム畑』という作品が生まれて、『消しゴム石』という本もできて、さらに『消しゴム式』という小説も生まれた。そうやって形をどんどん展開させたことによって、見えてきたものもありました。それから、コロナの影響でツアーが延期になったのもすごく重要で、作品がずっと生き続けてるだけじゃなくて、ただ寝ているだけの状態を経たのもすごくよくて、時間の感覚みたいなものをそこで得られたんですよね。ニューヨークに送った舞台美術が届かなくなってしまうというトラブルもあったんですけど、海の上で『消しゴム山』のセットがずっと漂っているイメージがすごくおもしろくて。時間のスケールのことは最初から『消しゴム山』の中に含まれてましたけど、それが生々しく現実的に感じられるようになったのもあるかなと思います。

――『消しゴム山』の中には時間について語るシーンもありますが、この「消しゴム」シリーズを通して、お2人は時間についてどんなことを考えましたか?

岡田:あるミュージシャンと話してた時、その人「時間はない。空間だけがある」って言ったんですよ。それを聞いた時に、あ、そうかも、って思ったんですよね。

金氏:僕も作品を作る時に時間のことを考えることはあるんですけど、今回思ったのは、時間は1つのスケールでしかないということで。ものすごく膨大な時間や、ものすごく一瞬の時間を同じように認めると、それこそ時間なんてないようなものになる。それは今回特に思ったことですね。「消しゴム」シリーズは、時間もそうですし、全く別の距離感や全く別の空間によって、全然違う経験が生まれることにすごく意識的な作品だと思います。それはいろんなシリーズとして展開していることもそうなんですけど、『消しゴム山』だけをとってもそうだと思っていて。「『消しゴム山』がひとつの完成された作品である以上、同じようにそれが経験されないと、作品として成立しない」ということではなくて、全く違う経験が生まれうるということを積極的に扱っている作品だということは、今話した時間の感覚みたいなことと繋がっている気がします。

岡田:今の金氏さんの言葉にあった「スケール」っていうのは、その通りだなと思います。僕はどんなものだって扱うんだけど、いつもスケールを扱っているなと思います。例えば『消しゴム山』という演劇の上演作品は、当たり前の話ですけど、劇場という物理的な空間のスケールの中で行われるわけです。あるいは、2時間という上演時間のフレームがある。でも、そういったフレームを無視したスケールのものが、作品の中に確かにあるんですよね。僕の中には、『消しゴム山』という作品を通じて陸前高田で感じたことをものすごく忠実に再現できてるって感覚があるんですけど、その根拠の大きな1つはたぶんそこにありますね。

「消しゴム」シリーズの作品1つ1つが独立した作品

――「消しゴム」シリーズはさまざまな媒体や空間で展開されてきましたが、今、劇場というスケールについて、どんなことを感じていますか?

岡田:1つの物理的な場所を共有するってことは、すごく力を持つことなんですよね。それを昨年奪われた経験を持つわれわれは、そのことを実感していますよね、

病気になって「健康は大事だ」と思うのと同じような意味において、劇場は大事だと。演劇という制度の基本的な場所である劇場は、美術館と比べて、すごく人間中心的な場所です。美術館だと、洞窟の壁画まで遡らなくても、いわゆる昔の名画っていうだけでも何百年前の絵があるわけだから、そういう時間のスケールがある。だけど、劇場では今そこで行われているものしか生まれないんですよ。そういう場所において、それを乗り越える試みをすることに価値があると思っているんです。『消しゴム山』を京都でやったあと、金沢で『消しゴム森』をやった。そして、それはとてもしっくりきました。でも、美術館という制度の中で「消しゴム」コンセプトをやるのがしっくりくるというのは、最初からわかっていた。人間中心的な場所である劇場で『消しゴム山』が行われることが、チャレンジング。東京公演では、それをある一定のところまで到達させられたのでハッピーです。

――2月に池袋で上演された『消しゴム山』には、事前にワークショップが行われたり、音声ガイダンスを導入したり、劇場にアクセスする障壁を減らすバリアフリーの取り組みが行われたり、「鑑賞マナーハードル低めの回」が設けられたりと、劇場という空間をときほぐすような取り組みも数多くありました。そこでどんな手応えを得たのでしょう?

岡田:鑑賞マナーハードル低めの回には可能性、手応えを感じました。だって、「鑑賞マナーハードル低めの回です」と宣言するだけで、人の心は寛容になる、ハードルが低くなる。これってほとんどコンセプチュアルアートというか、インストラクション・アートというか。

金氏:今回はオンライン配信版もあったし、音声ガイドもあったし、ワークショップもあって。その全部が、『消しゴム山』という1個の作品の説明ということではなくて、それぞれ作品として成立するようなものとしてあったんです。そのスタンスがすごくおもしろかったなと思います。その取り組みを1個1個独立した作品のように考えていくのがおもしろいし、同じ1つの作品が多面的であるということを超えて、経験する人のそれぞれの距離、状況、状態などによって別々の作品として成立するという作り方にとても可能性があると思っています。

岡田:今回は上演のライブ配信もやったんですけど、観てくれた人はとても少なかったんですよね。残念。物理的な場所で行われる上演の観客であること、劇場に行くって決めて、スケジュールを確定し、それに縛られることは人にとって重要なんだなと、あらためてわかりました。

金氏:配信の内容自体はすごく良かったのに、観られなかったんですよね。

岡田:でも、その映像『消しゴム山は見ている』っていうタイトルなんですけど、作品は、アーカイブされて今でも観られます。観てほしい。

■『消しゴム石』
『消しゴム山』、『消しゴム森』の戯曲や上演 記録、インタビュー、批評などが凝縮された『消しゴム』シリーズの書籍版で、同シリーズを読み解く上で鍵となる1冊
価格:¥2,000
仕様:A4変形
ページ数:144ページ
仕様:日英バイリンガル
発行:SHUKYU

■『消しゴム畑』配信版『消しゴム山は見ている』
バリアフリー型プラットフォームTHEATRE for ALLにて配信中。
期間:2021年2月22日〜2021年4月30日
字幕:日本語・英語 / 155分
料金:¥1,800
視聴:https://theatreforall.net/movie/erasermountain_archive

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author:

橋本倫史

1982年東広島市生まれ。物書き。著書に『ドライブイン探訪』(筑摩書房)と『市場界隈』(本の雑誌社)。琉球新報にて「まちぐゎーひと巡り」(第4金曜掲載)、JTAの機内誌『coralway』で「家族の店」、WEB本の雑誌にて「東京の古本屋」を連載中。読売新聞読書委員。 Twitter:@hstm1982

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