$HOW5が描く過去と未来が交差したネオ・フューチャー

カセットテープやCDRをキャンバスに描かれた、目を引くポップなイラスト。それは録音されたアルバムのジャケットのアートワークだったり、好きな音楽アーティストや曲をイメージしたオリジナルの絵だったりとさまざま。子どもの頃からほんの少し他とは違う角度で音楽に慣れ親しんできた、イラストレーターの$HOW5が描くイラストは、ソウル、ヒップホップ、トラップ、パンク、ニューウェイヴ、シティポップといった音楽好きが観たらたまらなく幸せになるものばかりだ。

最近は描くモチーフを、1980年代~1990年代のカセットデッキやiBOOK、iMacなどのパソコン、さらに音楽機材「ローランド(Roland)」の808などにも広げて、新しい試みにも挑戦中だ。

未来に向かって生きる私達がポジティブな気分になれるよう、そんなメッセージが秘められた作品には、$HOW5のこれまでの生き様がすみずみに表れているのだ。そこで今回は、$HOW5本人のルーツから現在地までを探る。

$HOW5 / TEGAKI(ショウゴ/テガキ)
イラストレーター、DJ。母は美術の先生で、父はソウルミュージックをこよなく愛する数学の先生と、両親がともに教師という家庭で育つ。1998年からレコードジャケットを手描きしたカセットテープやCDR作品を1000点以上制作し続けている。最近のオフィシャルワークとしては、「ラルフ ローレン(Ralph Lauren)」のホリデーイベントでのショッピングバッグの手描きポロベアとポストカードのデザインや、『POPEYE Magazine』の映画特集号の見開きイラスト、水谷光孝著『Wassup! NYC』の挿絵などを担当。DJとしては、DOMMUNEのブートレグ特集に出演。個展としては、2022年9月に代々木上原の「ファイヤーキングカフェ」で「“car$$ette” by $HOW5」を開催した。
Instagram:@show5_original

邦楽禁止の幼少時代とそこから模索した「ファンキーってどんなノリ?」

——まずはアーティストのルーツの話から聞かせてください。どのような幼少時代を過ごされたのでしょうか?

$HOW5:兵庫県の六甲で生まれて、それからすぐ尼崎に行って、小学校から伊丹。1979年生まれなんですけど、当時の尼崎とか伊丹はかなりやんちゃでした。パンチパーマに暴走族と、そういった人達がリアルに近くにいました。

それでうちは父がだいぶ変な人でした。数学の先生なんですけどレコードコレクターで、ソウル・ファンジン・フロム・大阪『Soul To Soul』というZINEをつくっていたんですよね。ZINEでは父が気に入っていたソウルミュージックやドゥワップとかのレコードが紹介されていて、子どもの頃は僕には見せてくれなくて。でも大人になってから読んだら、ちょいちょい下ネタとかが書いてあって(笑)。ちなみに学校の先生なんで、「あなたのソウル度チェック 」ページとかあったりしておもしろいんですけどね。

——(笑)。では、お父さんの影響でソウルミュージックが子どもの頃から身近にあったんですね。

$HOW5:そうですね。ただ子どもの頃は、家では邦楽を禁止されていて。父はもともとバンドをやっていたのもあって、邦楽は日本語の言葉の特性として8ビートにはうまく乗らないから、聴くとリズム感が悪くなると。そのせいで、学校で友達が話しているヒット曲がわかんないという……。家ではJB(ジェームス・ブラウン<James Brown>)で、学校ではビーズ(B’z)。僕はビーズもいいなと思っていたんですけど、レコードを買ってくれないので、テレビの「ミュージックステーション」だけが頼りでした。

自分としては、学校の友達とは話が合わないから、つらかったですね。父は、音楽に関してアフリカアメリカンが発明したリズムをとても重要視していたんです。音だけで白黒はっきり認識できるというか……。その白黒は肌の色なんですよね。そんな感じで世間とは逆転していて、ヒット曲じゃなくて、レコード屋基準でした。のちに評価されるレア盤を早く見つけたら偉いとか。ノリが悪いのはダメ! みたいなことを刷り込まれながら育ちました。

——それはアフリカアメリカンのカルチャーに関して、物心つく前から生活の中にあったということですね。$HOW5さんが音楽にのめり込んだきっかけはなんだったのですか?

$HOW5:テディー・ライリー(Teddy Riley)とか、ボビー・ブラウン(Bobby Brown)とか、ベイビーフェイス(Babyface)の1stだったりかな。都会的だったんですよね。「ローランド」のD-50のシンセサイザー音が入っていて。JBとかもサンプリングしているんだけど、ぜんぜん違うというか。車のフェアレディZとか、マツダRX-7 FDとかに、ボビ男(※1990年代初期のボビー・ブラウンのような格好をした人)や黒服みたいな人が、ボディコンみたいな服を着てるオネーさまを連れて乗っていて、爆音でテディ(・ライリー)系がかかっていて、「イケてる!」みたいな。それが12歳くらいの頃で「どうやら僕はこっち側が好きだぞ!」と。

ただ「ミュージックステーション」にズー(ZOO)が出た時に、ちょっとした困惑がありました。父からしたらズーだったりはあり得ない存在で。父はバンドでファンキーなグルーブが出せない、アジア人のノリはなんだろうってそういった壁にぶち当たりながら英語のカバー曲で挑戦してる人だったから、「これ(ズー)は聴くのはやめてくれ」って言われたんですよ。それでまた「これも違うのか」ってなりました。

——それは大きな命題ですね。何を突き詰めるかで変わってくる。

$HOW5:そうなんですよね。そこから「ファンキーやノリってどういう感じなのか」とか、「よくグルーヴとかいうけど、何を指しているんだろう」とか、そういうことを考えるようになりました。すると、8ビートだけではなく、16ビート。つまり倍のリズム空間を感じて踊れている人は日本人だとほぼいないってことに気付いたんです。

——$HOW5さんの作品を観ていると「何かあるな」とは思っていましたけど、そんなルーツがあったのですね。

$HOW5:あとは、図工(母)と数学(父)を教える両親の子ども。共働きなので、学校が終わってから図工室とかで長い時間待たされたんですよね。暇で時間があったので、ゴッホの本とかを観たり、シダの葉っぱの数を数えたりしていました(笑)。それでちょっとおかしくなってしまったのかもしれないです……。

あと、昔のことをよく覚えているねって言われます。子どもの頃に観た西部警察のワンシーンだったり。僕はその頃は4、5歳だったんですけど、すごく覚えているんですよね。

——それは何かの瞬間につながることがあるんでしょうか?

$HOW5:最近だとトラヴィス・スコット(Travis Scott)がいるジャックボーイズ(Jackboys)曲のMVに、マツダのRX-7 FDが出てきたんですけど「これは中学生の頃、めっちゃ乗りたかったやつだ!」みたいな。まさかランボルギーニに数千万かけているラッパーが、数百万の車に乗るなんて! と思ったことがあります(笑)。

自分のレコードがほしくて、カセットテープにイラストを描き始める

——続いて作品について聞かせてください。絵を描くことは独学で学んだんですか?

$HOW5:デッサンや絵の技術は母から教わって、父からアイデアを学び、それで描いていました。それから美術、デザイン系大学にも行ったんですけど、僕はいろいろと疑問が湧いてきてしまって、自分と学校のズレを感じてしまったんです。

その環境でも音楽だけはずっと好きで聴いていて、ちょうどその頃ムロ(MURO)さんやデヴラージ(DEV LARGE)さんがよくネタものやソウルを雑誌で紹介していたんですけど、それが家にあるレコードばかりで。そういったこともあって、物事をいろいろな角度で見るということに気付きました。

——カセットの作品はどれくらいの時期から制作されているのでしょうか?

$HOW5:1998年です。日本にMDが出てきたくらい? ですかね。家のレコードは父のものなので、父がいない間にそのレコードをカセットに録音して、自分の部屋にカセットのレコード棚のようなものを作ってました。それは「自分のレコード屋を作りたい!」みたいな感覚だったんだと思います。レコードジャケットのあせた色とかも好きで、文字のフォントが年代によって違うところなど、まさにレコードから学ぶアートといいますか。だけどこのノリだけでは食べていけないし……。悩みながらDJやラップをしながら、そのうちスニーカーを作ることがめちゃめちゃBボーイなんじゃないかと思い始めたんです。

——スニーカー作りに興味を持たれたんですね。

$HOW5:大学にいた頃、僕は「ソウルトレイン」(※1971年から2006年までアメリカで放送されていたテレビ番組)の影響で、アフロヘアにしていて、それで学校に行っていたんですけど、それを教授におもしろい髪型しているなと気に入られまして。その教授の話を聞いていくうちに、教授はハングリー精神が強かった戦後に生きてきた人だとわかり「こういう人が戦後を変えてきたのか」と思いました。それがめちゃドープというか、かっこよく感じて、金を稼ぐことって実はめちゃくちゃかっこよいことなんじゃないかなと考えるようになったんです。

マニアックさを極めていくのもいいけど、ずっとそれだけなのも何か違うなと思うようになったのがこの頃で、ちょうど日本ではさんピンCAMPが開催されたあとに成熟してきた時期でした。とても夢があった時代だったので、自分も、まだ誰もやっていない新しい感覚でヒップホップにたずさわりたかった。それがスニーカーを作ることでメイクマネーをすることでした。そうだ、ちゃんと就職をしてスニーカーを作ってみたいと思ったんです。それで神戸の小さな靴工場で数年働いた後、今の会社(「ニューバランス(New Balance)」)に就職しました。

根底にあるパッションは「日本をもっとよくしていきたい」

——個展を初めて開催したきっかけはなんだったのでしょうか?

$HOW5:兵庫から東京に引っ越してきて、KZAさんやシンコスチャダラパー)さんのパーティに通っていたんですけど、それでちょっと顔を覚えてもらえるようになった時に、「君は何をやってるの?」って聞かれて、これまで描いてきたカセットやCDRを見せたら、「これなんかやったほうがいいよ!」と、シンコさんやデヴラージさんに言われたんです。自分が憧れていた人達に声を掛けてもらえたこともあり、「これは何かしないと」と、カセットテープやCDRの作品展を2014年にやったのが最初です。

その時の個展は、1990年代から2000年代くらいのヒップホップの作品が多かったです。ただカセットテープやCDRは小さいので会場を埋めるのは大変でした。そこで昔から好きで持っていたラジカセ本体に絵を描いたり、小さな絵を引き伸ばしたりして展示をし始めたので、そこから現在の形に近づいていきました。

——作品を見ているとソウルミュージックやヒップホップだけでなく、シティポップやパンクなどの音楽も好きですよね。

$HOW5:ある日、パンクショップの「アストアロボット」で展示しないか声を掛けられたんです。その時にパンクやマルコム・マクラーレン(Malcolm McLaren)の洋服にも興味がわいたんです。すると「セディショナリーズ(SEDITIONARIES)」は、トラップのラッパーの人達も着てたりしていたし、パンク以降のニューウェイブやノーウェイブのアート・リンゼイは坂本龍一さんともリンクしている部分があって。そう、中西さんのプラスティックス(Plastics)の感じやブレードランナーのSF感、結局1980年代の東京、YMO、はっぴいえんど、ナイアガラ、なども含めて調べることになっていきました。そして、シティポップも日本のソウルミュージックとして描いていて、作品を観てくれた吉田美奈子さんがコンタクトしてくれたことは、自分の中ではとても大きなできごとでした。

それから1980年代の東京について調べることが、もっと楽しくなりました。そして、1980年代から裏原宿の前夜くらいまでを総合的に今のものとして見せられる表現はないか模索し始めました。サイバーパンク以降のSFを感じるヒップホップの源流。アフリカバンバータやラメルジーのような感覚で“NEO TOKYO”を表現することに興味が出てきました。

——結局はヒップホップに戻ってくるんですね。現在の作品では「ローランド」の 808が使われていますが、ヒップホップやトラップと言えば808ですよね。

$HOW5:日本車で例えるなら、レクサスなんかは海外でも評価されていて、ヒップホップ界でもSWAGな車だったと思うんですけど、808もそれと同じだと僕は思います。だけど車ほど国内で一般的には知られていない。僕が学生だった頃の教授から感じた、「日本のハングリーさを取り戻せ!」じゃないですけど、まだ誰もやっていない日本の表現。そういったことを機材の作品で車と一体化させて表現しました。最近NHKでも808の特集がありましたし、1980年代にYMOやプラスチックスが使い始めた日本の機材音が、2020年代もグローバルチャートのサウンドの主流である事実って、めちゃくちゃおもしろいし重要だと思うんです。

 

——日本発のものが海外に渡って、それが向こうで独自のカルチャーを産んでいることもありますよね。

$HOW5:そうなんですよ。アニメ『AKIRA』とシティポップが同じ空間にあるのは、日本人的にはしっくりこないかもしれないですけど、山下達郎や大貫妙子をサンプリングして808ビートに仕立てて、映像で『AKIRA』をサンプリングするみたいなことをやっている人気アーティストが向こうには普通にいるんですよね。それに気付いていないのは、海外に対して日本人が興味をなくしてしまっているからなんじゃないかなと思います。とてもおもしろいのに一方通行のカルチャーなのがもったいないなあと。

——アンテナを張っている日本のクリエイター達は、同じことを感じているかもしれないですね。でもまだまだ気付いていない人も多いかもしれません。

$HOW5:自分の作品の中で使っている映像は、海外のヴェイパーウェイヴの人が編集したものなんですけど、同じ映像の切り方でもしゃれているというか、カッコよく見える。夏目雅子も新鮮に見えて、海外の友人からすると「こっちではこんなに日本のものが人気なのに、日本人はなぜ? 興味はないの?」って。海外では今のリズム感でもっと進化させているのに「新しくなったものに興味はないの?」っていう。この感じを自分なりにどう伝えたらいいのか、葛藤も含め模索しているうちに、出てきたテーマが「今の日本をもっと明るく前進しましょう(笑)!」っていう様なところでした。感覚の鋭い人が作品を観て気付いてくれたり、新しい視点にも興味のある人が増えてくれたらいいなと最近は思うようになりました。

——そのような作品を今後も自由に作り続けたいですか?

$HOW5:カルチャー・ボランティアじゃないですけど、本当に大事にしているものが広がることは嬉しいです。時間もお金もそういうことに投資していきたいし、そうしていると好きな人が自動的に集まってくれるので毎日楽しいです。この数年で共感してくれる人が集まってきて、やっとおもしろくなってきました。だから、これからも自由に作っていきたいです。無理してわかってもらおうとは思わないですけど、新しい表現って最初は理解されにくいので、どうやってアプローチしていけばいいのかということも、今後はもう少し心掛けて制作するようにしたいですね。

Photography Kazuo Yoshida

author:

Kana Yoshioka

フリーランスエディター/ライター。1990年代前半ニューヨークへの遊学を経て、帰国後クラブカルチャー系の雑誌編集者となる。2003年~2015年までは、ストリートカルチャー誌『warp』マガジンの編集者として活動。現在はストリート、クラブカルチャーを中心に、音楽、アート、ファッションの分野でさまざまなメディアにて、ライター/エディターとして活動中。

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