日常と、芸術の存在意義 連載:小指の日々是発明Vol.4

去年頃からだろうか。これまでずっと理由をつけて会っていなかった母と、時々連絡を取り合うようになった。コロナの流行と、母の退職がきっかけだったように思う。
先月もグループ展があり、その展示の主催がたまたま母が若い頃に愛読していた美術雑誌の会社だということを知った。誘ったら喜ぶだろうなとは思いつつ、如何せん高齢の母を外へ連れ出すのは心配で、散々悩んだ挙句一応声だけかけてみることにしたのだった。
思いきって誘ってみると、光の速さで「行くよ」と返事が来た。しかも、「明日行く」と言う。最近長く続けた仕事を辞めたばかりともあって、母もコロナ禍で随分時間を持て余しているようだった。

当日東銀座駅の出口に着くと、階段のところに前よりも随分と小さくしぼんだ母がいた。白髪染めをやめたのか、ちょっとショッキングなほど年老いて見えた。気持ちが追いつかずおどおどしていると、母の方が「ああ、いたいた」とこちらに気がついた。
家族なのに、私達はいつもどこかよそよそしい。母とこうして出かけるのも随分久しぶりだった。昔は、競歩のように歩く母の背中を見失わないようついて歩くことにいつも精一杯だったような気もするが、今や祖母と歩いていた時みたいに母の足元を気にしながら歩いている自分がいる。

会場は、駅からほど近くにある「銀座SIX」というビルだった。
母はどうやら「銀座SIX」を雑居ビルかなんかだと思っていたらしい。本物を見た瞬間に急に慌てだし、私のインドパンツを引っ張って「あんた、こんなの銀座に履いてくものじゃないよ! やだよもう、本当に服に頓着しないんだから……」と突然嘆きだした。
「言ってくれたらもっと上等なもの持ってきたのに……」。母がそう言って持ってくるのは、いつもきまってウエストにゴムの入った股上深めのスラックスだった。そのため 私の洋服箪笥は既に9割がた母のお下がりでジャックされており、普段着にもパジャマにも使えないようなものばかりで今も非常に困っているのだった。
エスカレーターで、会場の銀座 蔦屋書店のある6階へ向かう。母は辺りを見回し、吹き抜けに飾られた現代美術を見て「いいわね、ああいうの」なんて言っていた。6階に着き、正面に飾られた美しい色彩の写真を見ると「あら、あら、綺麗」と声を弾ませていた。

母は定年まで、小学校で図工教諭をしていた。私と血が繋がっていることが信じ難いほど仕事に熱心な人で、現役の教員時代は私なんかよりもあちこちの展覧会を回り、家の中は図工の指導書だらけで、土日も休まず教材研究をしているような人だった。
母は根性があり、自分にも他人にも厳しい人だった。その点私は怠け者で、ボーッとしていて気が弱い。すべてにおいて真逆の私達は顔を合わせるたびに喧嘩し、いつだったか私がスーザン・フォワードの「毒になる親」を無言で送りつけたことをきっかけに関係は決定的に決裂した。
それからいろいろなことがあってこうして連絡をとりあうようにはなったが、今もお互いじりじりと距離を詰め合うような関係でけして穏やかとは言えない。正直、今日だって会うのが少し怖かったくらいだ。
母はもともと、絵描きになりたかった。だけど美大の進路を親に反対され国立に進学し、教員として美術に携わって生きてきた。今は退職してほとんど家にいるが、こういう場所にいる母を見るとやっぱり今も美術が好きなのだろうなあとしみじみ思う。母は教員を「天職だった」と言い、私も傍で見ていてその通りだなと思うけれど、周りのために我慢をしてきた母と、周りを困らせてまで自由を選んだ私とではそうした点でもやっぱり真逆なのであった。

書籍が置かれたスペースには立派な椅子があり、見本の本が自由に読めるようになっていた。母は、並べられている上等な画集をめくりながら「これ全部、読んでいいの? 国会図書館みたい」と子どものように目を丸くした。
そうしてあちこち見物しながら歩き、フロアの中央にある展示スペースに着くと母は後ろで手を組みながら「フーン」と言い、私の絵を眺め始めた。
1つの作品が売約済みになっていた。母に言うと、「いくらで!?」といきなりがっつきだし、値段を言うと母は絶句した。「誰が買うの……」。そして、右や左、正面から絵をまじまじと観察し、「なるほどね、これは色が綺麗だもの。普段うんこ色ばかり使うあんたが珍しく綺麗な色を使ったよ」と、褒めてるんだか貶してるんだかよくわからないことを言った。
ああだこうだと言い合っていると、突然母がここでは絶対口走ってはならないことを叫んだ。
「あんた、これまさかうんこの写真じゃない?!」。
会場が若干ざわついた。うんこの写真など全く身に覚えが無い。母は一体何を……と恐る恐る母の指す先を見ると、それは茶色いイソギンチャクの写真を使ったコラージュだった。
「うんこじゃない。これは海洋生物」と正しても、母はなかなか納得しない。それどころかその後もあちこちを指差しては神妙な面持ちで「これももしかして……?」などと言う。どうやら、何でもかんでもうんこに見えてしまっているらしい。私も困り果て、「違うって! それにさっきから私の絵はうんこ色だって言うけど、私はこういう色が好きなんだよ。綺麗なだけのものには興味がないんだよ」と言うと、母は「ハア〜……」と大袈裟にため息をついて、「色彩感覚を磨きな。色の研究が必要だね。葛飾北斎を見習いな」と、あきれた顔で言った。どうやら先日、葛飾北斎のドキュメンタリーを見て随分と感銘を受けたらしい。
そして母は、「さすがにうんこはだめだよ、うんこは……」と言い残し、他のフロアへ1人でスタスタと行ってしまった。
母がいなくなって会場が静かになると、私はようやく自分達に向けられていた会場スタッフの厳しい視線と緊張に気づいた。大変気まずかったが、久しぶりに母が楽しそうにしている気がしたので良しとした。

展示を見終えたあとは母の用事に付き合い、近くの駅の改札まで母を見送ると別れ際こんなことを言い出した。
「あんたの絵は別に好きじゃないけど、見たあとは何でか息がスーッとして、自由な気分になる。何でだろうね」。
私は思わず「えっ」と声が出た。これまでそんなこと一度だって言われたことが無かった。びっくりしていると、母はこう続けた。
「こないだのあんたの個展の帰りも、電車の中で揺られながら『こんな自由な気分になれることがこの世にあったんだ』って、いろんなこと思い出した。今もあの日を思い出すと、心の中がポッと温かくなるような気がするよ。
あんたはいつもブツブツ言ってるけど、心の奥には自由が流れてるんだろうね。それが作るものに出てるよ」。
そう言って、母はそのまま背を向け改札を抜けて乗り場の方へ行ってしまった。
私は慌てて「またね」と言ったが、あっという間に見えなくなってしまった。

私はこの時の母の言葉が、これまでかけられたどんな言葉よりも嬉しかった。そして何より、ずっと「気難しく、恐い人」と思っていた母が1人でそんな風に感じていたと思うと、なんだか複雑でたまらない気持ちになった。そしてその母の感覚は、私にもとても身に覚えのあることのように思えた。

そういえば、コロナ禍が訪れるまではよく、美術館や小さな映画館に1人でフラッと行っては、非日常の世界に逃げ込んでいたなあと、ふと思い出した。人の少ない美術館も、空席の多い映画館も、今思えば聖域のような不思議な力のある場所だった。そして、本屋も図書館もライブハウスも、私にとって現実の抜け道のようだったそれらの場所にすらここ最近ずっと行けていない。
自粛ばかりの今を思うと、過去の私はずいぶん贅沢な時間を過ごしてたんだなあと思う。

今でもよく覚えているのが、2005年に渋谷の文化村で観たレオノール・フィニの展覧会だった。友人に「絶対好きだから」と誘われ、放課後に高校の制服のまま連れ立って行ったのだった。
暗く静かな会場でレオノール・フィニの作品と対峙した時、初めて見る不思議な色彩に驚いて、目を見開いたままその場から動けなくなってしまった。横を見たら、友達も同じく口を開けたまま放心していた。
図録を買うほど小遣いも無い私達は、自分の眼の中に作品を少しでも盗み入れたくて、2人並んだままじっと絵を眺め続けたあの日のことを今もよく覚えている。
そうして私達は美大の予備校へ通い始め、私はその日から自分の絵を描き始めるようになった。後で連れてってくれた友達にそのことを話したら、彼女は「わかる、わかるわ〜」と言っていた。

そんなことを思い出したら、改めて美術をはじめとした芸術作品は限られた特別な人間のものではなくて、あの時の幼い私達や自分を抑圧してきた母のような人に開かれるべき存在と思えてならないのだった。私もいまだに、遠くにぼんやり見える表現の世界への憧憬だけを頼りに生きている。これが無かったら、私はもっと何もわかろうとしないまま今も生きているのだろうなと思う。
作者が自己を解放させて作ったものには、観た人もまた何かが解放させられる力が宿るものだ。ここしばらくウイルスに怯えすぎて、そうした芸術の醍醐味さえ私はすっかり忘れてしまっていた。

自分が過去救われてきた数々の誰かの作品を頭の中で浮かべていたら、母の言った「お腹の中がポッと温かくなる感覚」を私も感じたような気がした。
自分も、誰かにそうやって思い出してもらえるような作品を人生で1枚でも作れるだろうか。せっかく気づけたのだ、頑張りたい、と思った。

これが、1ヵ月前の気持ちだった。
そこから東京の感染者は坂道を転がり落ちるように増加し、このたった1ヵ月で東京の医療は完全にひっ迫した。病床が足りなくなり、首相は「入院対象を重症者に絞り込む」と言った。まるで現実でないようなことが起きた。
あの時、当たり前にこれからの未来を頭に思い描いていたことが、今やもうただの願望みたいだ。
でも、まだまだこれから向き合いたいことがたくさんある。
諦めきれないほど大切な存在が山ほどある。
私が救われてきた文化芸術も、日々の喜びも、けして特別なものなんかじゃなくてただ何気ない日常の中に転がっていたものだった。
そういえば、昔の日記に私はこんなことを書いていた。
「寝る前の数分、本を読む時間があれば何があっても生きていける」。
メダルの数とか、国の見栄なんかいらない。それよりも、私は奪われ続けている個人的な日常を1日でも早く取り戻したい。
身も心も無防備に感動したり笑ったりしていた頃が、遠い昔のようである。

author:

小指

1988年神奈川県生まれ。漫画家、随筆家。バンド「小さいテレーズ」のDr.。 過去に『夢の本』『旅の本』『宇宙人の食卓』を自費出版で発表。小林紗織名義にて音楽を聴き浮かんだ情景を五線譜に描き視覚化する試み「score drawing」の制作も行う。 https://koyubii.wixsite.com/website Twitter:@koyubii Instagram:@koyubim Photography Noa Sonoda

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