曖昧な時間の中で生まれた邂逅
新型コロナウイルス感染症のパンデミックから約2年。当たり前だった日常の営みそのものがリスクとなり、移動やイベントが制限された単調な日々の中で、時間の感覚がどこか曖昧なものになっている人も多いのではないだろうか。
そんな中で発表されたシンガーソングライターbutajiの新作『RIGHT TIME』は、タイトル(「好機」の意)通り、この曖昧な時間に強く点を打つようなアルバムとなった。己の深淵に向き合って「語られない言葉」を探していた前作『告白』(2018)とは大きく違う、自分自身や他者に働きかける意思を感じる曲群。それは今作がtofubeatsやSTUTSといったゲストを迎えるという初の試みによって制作されたことにも表れているが、そこにもう1つ、『タッチ』と題された、芥川賞作家・滝口悠生の掌篇小説が収録されたことも特筆に値するだろう。
異色、と言っても過言ではないこの邂逅は、どのような回路によって生まれ、現在にどのような意味を持ちうるだろうか。両者に振り返ってもらいつつ、同じ時代に言葉を紡ぐものとしての制作思考を聞くべく、対談を行った。
互いの表現に感じた、「救い」と「信頼」
——新型コロナウイルスの感染拡大以降、多くの人が異口同音に「時間の感覚が溶けてしまった」と言っている気がしませんか。今は2021年の10月ですが、極端なことを言うと、今でもどこかで「まだ2020年なんじゃないか」という気分だったり。
滝口悠生(以下、滝口):東京ではついこの間まで、オリンピックの「TOKYO2020」の旗が下がってたじゃないですか。年号は昨年のまま。あれはやばかったですよね。
butaji:誰もが何かを延期していたような感じがありますね。時間は過ぎ去っていくものだということを感じる要素が少なかった。
——その中で生み出されたbutajiさんの『RIGHT TIME』も、滝口さんの最新刊『長い一日』も、平時に聴いて読むのとは全く違う届き方をするものになったと思います。
『長い一日』は、流れゆく時間の中にある一点を描きつつ、それを引き延ばして前後に積み重なった時間の層を丁寧に炙り出すような作品でした。そこには、滝口さんが一貫して持っておられる「語られない言葉」への眼差しも満ちていた。その滝口さんの言葉が、このように『RIGHT TIME』の楽曲と響き合うものになるというのは、ある種の必然をも感じます。
butaji:『長い一日』は、本当に……僕にとって助けになりました。1つの物事に対して複数の視点があるということが、こんなに語られた作品に出会ったことがなかったので。
滝口:「助けになる」というのは、嬉しい感想です。書いている間は「何かの助け」「誰かの救い」みたいなことをそこまで意識するわけではないんですけど。
butaji:それはそうですよね。ただ、僕自身は本当に救われた気がしたんです。『タッチ』の原稿を読んだ時も、同じように思えて。
『死んでいない者』(2016年、文藝春秋)で第154回芥川賞 を受賞した作家・滝口悠生の、『高架線』(2017年、講談社)以来となる長編小説。住み慣れた家・町から引っ越す夫婦と周辺人物のとある1日を、複数の視点・人称と流動的な時間の折り重なりにおいて描きあげた。非ドラマチックで極めて平熱的な、しかしかけがえなく豊かな生の手触りが立ち現れる珠玉の1冊。
滝口:ありがとうございます。いただいた音源が素晴らしくて、繰り返し聴くうち、何かに「ふれる」というモチーフが早い段階で浮かんで。何かにふれる、その触感的なことを書けばいいんだろうなと。普段書くものと比べて、迷うことは少なかったです。
これまでの作品もそうですけど、butajiさんの歌を聴く時にまず最初に感じ取るものとして、声のテクスチャーがあります。それに信頼を置けるという感覚が自分の中にあって。
butaji:信頼。それは嬉しいです。
前作『告白』から約3年ぶりとなる、butajiの3rdアルバム。「わかりやすさ」からこぼれおちる感情の機微を捉えた真摯な言葉を、国内外の名ポップス群を継承する歌心とフォーキー/エレクトロニックを往還する折衷的なプロダクションにのせ歌い上げた。STUTSや折坂悠太との共作曲、tofubeatsによるリアレンジ曲を含む渾身の全10曲に、滝口悠生による描き下ろし掌編「タッチ」を同梱する。
滝口:声は、それ自体では意味を持たないじゃないですか。言葉になって初めて意味が生じる。ただ、その言葉の意味を全く別にして「この声を信頼していいんだ」と、いつもbutajiさんの音楽から感じる。そこが、僕がbutajiさんにシンパシーを覚えるところで。
小説でも、自分が書いているものにしろ、人のものを読むにしろ、言葉の意味の向こうにどんな声のテクスチャーがあるかを僕は考えます。小説は物理的なものではないし、音もないわけですが、それでも読む人が聞き取る声的なものが、小説の文章にはある。そこに、「この人の声なら聞いていい、聞きたい」と思わせるものがたぶんあるのかなと。作品から何かの感触を察知するという点では、小説も音楽も同じという気がしています。
だから、butajiさんに伺ってみたいことがあって。音楽を作る時に発生する、どんな曲、どんな音を作るか——というクリエイションの実務的な作業とは別に、そこにどんな声、どんなテクスチャーを与えようといった意識は持っていますか?
butaji:やりすぎないようにしたいと思ってますね。例えば悲しいことを「悲しい」と言う、それをやりすぎないように。全体のバランスをすごく意識しています。よくある六角形のパラメータ表で、全部が均等にきれいになる感じを目指したくて。だから、どこかが突出しているような音楽を作ろうという気持ちはないんです。
滝口:それはサウンドとして?
butaji:曲の全体、ですね。詞も声もアレンジも。
滝口:聴いている人が受け取る、すべての要素のバランスということ?
butaji:そうです。これはとても難しい……というか完全な達成はあり得ないと思うんですけど、作為的じゃないものにしたいんですよ。聴く人を、突出した何かで誘導してしまわないようにしたいんです。何を感じるかは最終的には聴く人に委ねたいし、それを「こっちの感情のほうへ!」と先導したくない。だから、全体のバランスをなるべく丸くしたいんです。
滝口:わかる気がします。butajiさんの曲は歌詞だけ読んだらすごくストレートな言葉の選び方をしているし、それは今作でより鮮明になっているかもしれない。ただ、だからこそ、それをどういう音にして、どう届けるかを考える時に、すごく……ある種の抑制みたいなものを働かせているのかなと。
butaji:それはすごくありますね。
滝口:ストレートなメッセージを歌ったとして、ただエモーショナルに激しく歌えばより多く、より遠くへ届くかというと、きっとそういうことでもないじゃないですか。ある人が言葉や声に込めた感情とか個人的な意味は簡単に他人と共有できるものではないし、むしろストレートであればあるほどそれは難しくなると思います。ストレートであるがゆえ簡単に、しかし粗雑に共有されてしまうというか。だから言葉を書くものとしては常に「では、どのように届けるか」を意識します。音楽制作の具体的な過程は僕にはわかりませんが、butajiさんにとっては「バランスを取る」というのが、その意識の形なんでしょうね。
butaji:歌詞は自分でもだいぶストレートになったと思いますけど、他に、メロディとか編曲も文脈として機能していると思います。それがあるから、「歌詞でここまで言っても大丈夫」と思えたのかもしれない。ストレートな言葉って、いわばその表現に至る過程が省かれた「結果」に近いものじゃないですか。その過程に相当する部分を、音楽の他の要素が担っているんじゃないかな。
——音楽は、やろうと思えばいくらでも「結果」の過剰演出というか、エモーションとスペクタクルだけのものにすることができてしまいますからね。
butaji:そうですね。なるべく一方向だけには行かないようにしたいです。
「歌い手」「書き手」としての自意識の在りよう
——「歌い手」としての自分と、歌の主語である「語り手」としての自分は、butajiさんの楽曲の中でどう共存しているんですか?
butaji:今回は特に、なるべく分離することを意識しました。「自分と別の人が歌っているようにしたい」という話も制作中にはしていて。その自制心、どこまで必要なのかわからないんですけどね(笑)。どれだけ意識しても、お客さんに伝わらないんだったら無意味なのかなとも思うし。
滝口:でも、作っていく過程で、いったん自分でそれくらいの距離を取らないと作業的にうまくいかないということはある気がしますね。
butaji:ですね。自分をなるべく俯瞰して、ようやくそれで書けるという感覚があります。渦中にいるとなかなか難しくはあるんですけど、それでも精いっぱい俯瞰しようとしている気がしますね。
——滝口さんの「書き手」としての態度の中にも、「語り手」と自分自身を分離する手つきがあると思うんです。ご自身のような人物が語るかと思いきや人称をずらしたり、他者を大いに描きつつもなるべく収奪的にならないような語りの形をとられている。この態度はどういう意識によって生まれるんでしょう?
滝口:小説を書く時、書き手の自分のスタンスとして一番近いのは「聞き手」なんですよ。語り手がそこにいて、その人の話をできるだけその人が語りやすいように語ってもらい、その内容をできるだけそのまま文章の形に移植する役割。だから「書き手」としての自意識みたいなものは、極めて後退していると思います。
butaji:なるほど。僕はまだ、あわいのところを楽しんでいる感じがしますね。「この歌の主語は自分かもしれないし、自分じゃないかもしれない」という。
歌詞を書いて歌ってとなると、どうしてもそれが「=自分」と見られるじゃないですか。それはもう仕方ないので、そのイメージを役割として考えながらまた別のアプローチを試みるというふうに、最近はしています。
滝口:音楽家は自分で作ったものを、ステージに立って、聴く人の前に自分の身体を現して歌わなければならないですもんね。
小説は書いてしまえば印刷されて人の手に渡るだけで、書き手が表に出てくる必然性がないので、作業としても自意識のコントロールがしやすいところはあります。とはいえ、それでも作品と作者の実人生や実生活を結びつけたがる人はいる。こういう作品(『長い一日』)は仕方ないですけど(笑)、まったく関係ないことを書いても、そういう反応は避けがたく出てきます。「みんな、そんなに作品と作者をつなげようとしなくてもいいのに」と思いますけどね。本当は、作者より作品のほうがよほど大きいものなので。
butaji:本当にそう。「こういう歌を作った理由は?」と聞かれることもよくあるんですが、「わからないよ!」としか答えられない(笑)。簡単に「作者が答えを持っている」とは思わないでほしいですね。
新作『RIGHT TIME』にあらわれた変化/曲の「よさ」とは何か
——『RIGHT TIME』は前作『告白』と聴き比べると音像や歌詞の内容には明確な変化がありますが、制作時の心持ちとしてもベクトルを同じくする変化があったんでしょうか?
butaji:そんなに変わったわけではないんじゃないかな。3年しか経ってないわけで。ただ、今作は多くのゲストが入ってくれて、アイデアが外から持ち込まれたことによって、身軽さは出てるんじゃないかと思います。自分一人で最後まで作り込むと、どうしても重たくなるので……「これ、形に残るけど大丈夫か?」「出したら引っ込められないぞ」という意識がすごくあるので、自分の中でなかなかOKにならないんです。
滝口:ゲストと一緒にというのは、最初から考えていたことなんですか?
butaji:そうですね。前作の反動もあるし、何よりそういう経験がなかったので「やらなきゃいけないんだろうな」と。もっと聴きやすくなったほうがいいと思ったんです。前作や前々作に関わってくれた人たちを幸せにできなかったんじゃないかという思いが自分の中にあるので、「よさ」というものをもう一度、まっさらな中から探し始めなければ、と。その手がかりの1つが、ゲストの参加でした。
滝口:1人で作ることと、ある程度誰かの手が入ることは、心持ちはかなり違いますよね。それはすんなり受け入れられたんですか?
butaji:「曲が強ければOKだ」と思っていました。素の、弾き語りの状態でいい曲であれば大丈夫だろうと。その曲をとにかくよくするというのが、このアルバムの作業でした。
滝口:その「よさ」はなかなか言語化が難しいと思うんですけど、どういうところにあると思いますか?
butaji:そうですね……根本的にはコードとメロディと歌詞に尽きるんですけど。近年増えている、歌唱がトラックの一部みたいになってる曲とは対極かもしれません。例えば、童謡の「赤とんぼ」を坂本龍一さんや大貫妙子さんがカバーしたらかなり強いと思うんですが、それはきっと「赤とんぼ」の「よさ」が引き出されているからだと思うんです。そういうものが、僕の曲にも備わるといいなと。
滝口:小説でも、その「よさ」を言語化するのは難しいんです。「ここはうまくいったな」という感覚や理由は全然言葉にできないのに、ダメな時ははっきりとわかるし、たぶん、何がダメなのかもわかる。
butaji:僕もそうです。すぐにダメなところを見ちゃう。
滝口:でも、それもバランスのとり方の1つなんだと思います。人称や時制や記述といった構成要素を細かく見ていくと「他の要素がこうなのに視点がここに置かれてると、他と合わなくなるな」といったポイントが見えてくるもので、バランスをとって視点を調整したり、視点の方が大事なら他を全とっかえしたりもする。どこかがおかしいと、単純に執筆が進まなくなるんですよ。その都度「どこがおかしいのかな」と読み返しながら直しているうちに、また少し先まで話が延びていく。だから、書き進めている時間よりも、読み返す時間のほうが常に長いですね。
いろいろ変えているうちにもとの要素が全部なくなったりもするんですけど、結局、作品というのは部分だけで作る作業ではないですから。どこかを変えれば他にも影響が出るのは当たり前なんで、部品だけ変えればOKというわけではないし。
butaji:僕も、聴いている時間のほうが長いです。全体がスムースに流れるように一応しておきたいという気持ちはあるし、でも、そこに歪なよさがあるんだったらそれも活かしたいと思いながら、繰り返し聴いてますね。
(後編へ続く)